戦前の優勝候補を次々に破って世界を制した82年。鮮やかなカウンターを成立させたのは、ゴール前に鍵をかけたシレアらDF陣でもあった。 (C) Getty Images

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◇ガエタノ・シレア:1953年5月25日生まれ イタリア・チェルヌスコ・スル・ナビーリオ出身
 
 もし、あの不幸な事故がなければ、今日で63歳。今頃は監督として辣腕を振るっていただろうか。あるいは、ユベントスのフロントの一員か。それとも、イタリア・サッカー連盟の役員か……。しかし1989年9月3日、ガエタノ・シレアはポーランドで帰らぬ人となった。
 
 イタリア・サッカー史に名を残す優れたリベロであり、誰からも頼られるリーダーだった。
 
 74年から14シーズンを過ごしたユベントスでは、7度のリーグ制覇の他、コッパ・イタリア2回、そしてチャンピオンズ・カップ(現リーグ)1回、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)1回、カップウィナーズ・カップ1回と、当時の「欧州3大カップ」を全て制した。
 
 また、欧州王者として85年にインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)に出場。東京・国立競技場でのアルヘンティノスとの一戦、シレア自身は負傷で無念の途中退場となったが、チームはPK戦までもつれ込んだ激戦を制し、初の世界王者となった。
 
 そしてイタリア代表としては、82年スペイン・ワールドカップで通算3度目の優勝を果たした栄光のイレブンのひとりとして、シレアはイタリアの英雄に昇り詰めた。
 
 インテリジェンス溢れるDFであり、テクニックと研ぎ澄まされた感覚で世界中の攻撃プレーヤーを苦しめ、そして相手チームの攻撃を封じた。機を見た攻撃参加は、ユーベ、アズーリのどちらにおいても効果的であり、また時に自ら重要なゴールを奪った。
 
 シチリアにルーツを持つシレアは、72年にアタランタでデビューした頃から才能を発揮。ここで2シーズンを過ごした後、ユベントスに引き抜かれ、すぐにレギュラーに定着して前述の輝かしいタイトルの獲得に大きな貢献を果たした。
 
 ユベントスでは84年から、代表でも85年からキャプテンを務め、最後尾からチームを支え続けた。
 
 ユーベでは歴代2位となる552試合出場(全公式戦)、アズーリでは78試合出場という記録を残して、88年に栄光に満ちたキャリアを全う。翌年、選手としてともに栄光を勝ち取った同志ディノ・ゾフがユーベの監督に就任した際、アシスタントに抜擢された。
 
 対戦相手のスカウティングなども担当したシレアは、89年9月、UEFAカップで対戦するポーランドのクラブを視察。その帰途、彼の乗った車がハイウェイでトラックと衝突し、爆発炎上。わずか36歳で、その人生を終えることとなった。
 
 国中に衝撃を与えたこの悲劇の後、イタリア・サッカー界はシレアの功績を称え、若い世代の大会や賞に彼の名を冠している。自国開催の90年イタリアW杯でも、世界中のメディアの拠点は「ガエタノ・シレア・メディアセンター」と命名された。
 
 ユーベもまた、ホームスタジアムのサポーター席に「クルバ・シレア」と名付け、殿堂入りも果たしたレジェンドを、その記憶に留め続けている。
 
 偉大な守備者の伝統を継承し、後世に引き継いだシレア。彼の後を受けたのは、ミランやアズーリで伝説の存在となったフランコ・バレージだ。シレア同様、優雅さと強さを併せ持ったリベロとして最後尾からチームをコントロールする彼こそ、まさにリーダーの代名詞だった。
 
 その後、リベロという存在はアズーリからは消えたものの、図抜けた対人プレーの強さを備えたファビオ・カンナバーロ、そして守備のセンスに溢れた天才アレッサンドロ・ネスタがアズーリの最後尾を長く支え、2006年には4度目の世界制覇の原動力となった。
 
 そして今夏、アズーリは68年大会以来の欧州制覇を目指して、フランスでのEURO2016に臨む。
 
 主力の怪我などで窮地に立たされているだけに、GKジャンルイジ・ブッフォンはもちろん、最後尾に陣取るであろう、ジョルジョ・キエッリーニ、レオナルド・ボヌッチ、アンドレア・バルザーリら、ユベントスのDFたち、つまりシレアの後継者の粘りが何より重要になってくる。