福島原発事故から5年。中曽根康弘が描いた「原子力の平和利用」の未来

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《周辺の住民には非常に大きな迷惑をかけた。自分の生活や職業、子どもの将来などまでに影響が出るような事態になったことは、本当に遺憾千万だと思います》


《私もこれまで地震災害に対抗できるように対策は注意深く進められてきたと思っていました。住民の将来にまで影響が出る事態に至ったのは遺憾の極みです。今回の事故を教訓に、戦後我々が進めてきたエネルギー政策の転機にしなければなりません》

これらは、2011年3月11日の東日本大震災にともなう福島第一原子力発電所事故を受けての元首相・中曽根康弘(1918年生まれ、首相在任1982〜87年)の発言だ。
(前者は服部龍二『中曽根康弘』中公新書、後者は中曽根康弘『青山常運歩 中曽根康弘 対談集』毎日新聞社より引用)

なぜ中曽根がこのような発言をしたのか。それは彼こそ、日本の政界にあって「原子力の平和利用」を積極的に推し進めてきた中心人物だからだ。

中曽根は衆院議員になって4年後の1951年、アメリカから大統領顧問として来日したジョン・ダレスに対し、敗戦後の連合軍占領下の日本では禁止されていた民間航空機の製造および原子力の平和利用を認めるよう訴えた。そしてこれ以後も欧米各国の視察や勉強を続け、日本独立後の54年3月には、原子力研究の調査費として2億3500万円の予算を計上、さらに翌55年12月には議員立法として「原子力基本法」を成立させている。敗戦で欧米との科学技術力の差を痛感した中曽根には、日本が立ち直るためには新しい科学技術、とくに原子力の研究開発に着手せねばならないとの強い思いがあった。

その中曽根が、福島原発の事故に対して率直に反省を述べ、さらには原発の安全基準の徹底的な見直しと代替エネルギー促進への取り組みを主張するようになったのだから、やはりただごとではない。

なお、中曽根は代替エネルギーとして太陽光に注目している。2011年6月の元東大学長で工学者の小宮山宏との対談では、「技術開発を進めることで、2050年ぐらいには原子力に頼らない社会が実現できる見込みだ」との小宮山の発言に、中曽根は《日本は太陽国家、太陽エネルギー国家になれますね》と期待を込めた(前掲、『青山常運歩』)。

大型台風の襲来から科学的な対策を検討


地震災害により原発で事故が起きたことは、政治家としてことあるごとに災害対策を手がけてきた中曽根にとって痛恨事であったに違いない。

1982年11月に中曽根が首相に就任する前月、まだ前任者の鈴木善幸が退陣を表明していない時点で作成された彼の「新政権政策メモ」には、「現場からの政治、まず地震対策」との一項があった。首相の女房役である官房長官に、それまでけっして反りが合ったとはいえない後藤田正晴を起用したのも、東京に直下型の大地震が発生した場合など危機の発生時に、的確に指揮・管理を行なえるのは元警察庁長官でもある後藤田しかいないと考えてのことであったという(草野厚「中曾根康弘――大統領的首相の面目」、渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』中公文庫)。

さらに時代をさかのぼり、1959年に第二次岸信介内閣で科学技術庁長官として初入閣した中曽根は、同年9月に東海地方を襲った伊勢湾台風の直後には、「台風の科学対策委員会」を長官の諮問機関として設置している。

このころの台風情報は米軍機による観測に頼っていたが、対策委員会では日本の航空機にも観測を可能とする技術を持つための予算の確保のほか、人員の整備、海洋観測船や観測定点の増加、テレビ・ラジオによる速報体制の整備が具体化されていった(『中曽根康弘、科学技術と政治を語る』ウェッジ)。

このほか、中曽根は科学技術長官在任中に、専門家に依頼して20世紀末までに科学技術がどこまで進歩するのか予測させた。それをまとめた『21世紀への階段 40年後の日本の科学技術』(1960年)には、「台風と地震の制御」という一章も設けられている。中曽根にとっても、台風の進路を科学的な方法で変更させることは大きな関心事であったという。

「日の丸衛星を飛ばす」と宣言


約5000人もの死者・行方不明者を出した伊勢湾台風は、気象衛星の切望を呼び、日本の宇宙開発が本格化するひとつのきっかけとなったとされる。このことは、昨年放送のドラマ「下町ロケット」でも阿部寛のセリフとして紹介されていた。

じつは中曽根は宇宙開発とのかかわりも深い。科学技術庁長官に就任してまもなく長官の諮問機関として「宇宙科学技術振興準備委員会」を設置し、1960年2月には宇宙科学技術開発計画をまとめさせた。中曽根はこの計画を「いずれ日の丸衛星も飛ばせる」と発表、同年5月には首相の諮問機関に格上げした「宇宙開発審議会」を総理府に設置する。

ただ、宇宙開発をめぐって科学技術庁は、研究で先行した東京大学の糸川英夫教授のグループを擁する文部省と激しいヘゲモニー争いを繰り広げることになる。中曽根は1960年代半ば、両者をとりまとめ、科学技術庁は実用衛星開発、文部省は科学衛星開発と分担を明確にするなど、国内の宇宙開発体制の基本的枠組みの確立に努めた。

ちなみに、中曽根は首相在任中の1984年、ときのレーガン米大統領に対しスペースシャトルに日本人飛行士を乗せてほしいと依頼している。これを受けて翌年、日本人飛行士として毛利衛・向井千秋・土井隆雄が選出された。

「中曽根レジーム」のなかで


自身が終戦直後より力を入れてきた原子力政策については反省の弁を述べた中曽根だが、一方で、憲法改正に関しては終始一貫して主張し続け、ゆるぎがない。

前出の『中曽根康弘』の著者で政治学者の服部龍二は、中曽根を取材した際、一度だけ怒らせたことがあったという。それはまさに憲法について質問したときで、服部がある文献を示しつつ「政権としての改憲を事実上、断念したともいわれる」と口にしたところ、中曽根は「改憲を断念したということは絶対にありません」と即答したらしい(服部、前掲書)。

中曽根は、赤字に陥った国鉄の分割民営化をはじめ行政改革の大事業を実現させるべく、「現内閣においては憲法改正を政治日程に載せない」と明言していた。しかしそれはあくまで「現内閣においては」ということであり、改憲の実現はその後の政権に託したとの思いが本人のなかにはあるのだろう。実際、現在の安倍内閣は憲法改正を政治日程にのせるべく着々と準備を進めている。

中曽根が自分の政権では果たせず、その後に託したことは改憲以外にも、消費税の導入、教育基本法の改正などがあげられる。消費税の導入は1989年、後任の竹下登内閣で、さらに教育基本法の改正も2006年に第一次安倍内閣で実現するにいたった。

それにしても、中曽根が首相時代に実現させたものがいかに現在まで強い影響をおよぼしているか。前出の国鉄はじめ国有企業の民営化という手法は、国だけでなく地方自治体の改革でも踏襲された。政策立案のため首相の私的諮問機関を数多く設けたことは議会軽視との批判も呼んだが、これはのちの官邸主導型の政治の先駆けとなる。また急激な円高に対し大規模な内需拡大策を組んだことは、バブル経済の生成を招き、その崩壊後の長期不況の出発点になったともいわれる。1985年の現役首相による初の靖国神社への公式参拝は、中国から強い反発を買ったため中曽根自身は以後自粛するが、靖国問題は現在にいたるまで尾を引いている(ただし中曽根政権下において、日本と中国・韓国との関係はきわめて良好だったのだが)。

このほか、「男女雇用機会均等法」、派遣労働者の認知と保護を目的とする「労働者派遣事業法」なども中曽根政権下で成立した。これらはその後、規制緩和などの動きのなかで改正され、さまざまな問題も生じている。

むろんすべての責任を中曽根個人に帰するつもりはない。しかし考えるにつけ、彼の残したものはあまりに大きい。政治・経済・外交・労働・福祉、そして科学技術にいたるまで、私たちは中曽根康弘という政治家がつくりあげた体制、いわば「中曽根レジーム」のなかで生きているといっても過言ではないだろう。

体制ばかりか、中曽根康弘その人も98歳を迎えようといういまなお健在で、積極的に著述活動などを続けている。その著書・談話に目を通すと、中曽根政治はある種の哲学で貫かれていることがうかがえる。

たとえば、前出の「新政権政策メモ」には《政治の究極の目的は文化に奉仕するにあり、自由を尊び、宗教や学問に対して越権があってはならない》との一文があった。政治家が自分の力を過信しているのではないかと思わせるようなできごとがあいつぐ昨今、中曽根のこうした理念こそ継承されてほしいとつくづく思う。
(近藤正高)