今も仙台と首都圏を行き来する清水は言う。
 
「『復興が進んでいる』というイメージが首都圏では当たり前になってきている。でも、現実は違う。(被災地の)沿岸部は、いまだになにもないと言っていい。普通の生活を送るのさえ、まだ遠い。一方、仙台の市街地は活気を取り戻している。まして東京に住んでいる人が、なにも感じなくなってきているのは仕方ない面もあると言える。
 
 ただ、そのギャップは正直、大きいと感じている。そんな現実のなか、自分になにができるか考えたら、ちっぽけなんだけど、この大会を続けることだと思ってきた。たくさんの協力をいただいて、こうして続けてきたけれど、正直、金銭的にはかなり厳しいよ(笑)」
 
 試行錯誤を繰り返しながらも、徐々に大会の規模は拡大されてきた。過去6回の開催で計1200人以上が、ボールを追い掛けてきた。第1回目の参加者は高校生になった――。彼らは2020年に開催される東京五輪世代にあたる。
 
「キザな言え方をすれば、未来のため。『未来=子どもたち』だと思っている。宮城スタジアムと言って、大会に参加している子どもたちは2002年の日韓ワールドカップのことなんて、もう知らない世代。彼らにとって宮城スタジアムは、『東京五輪の会場』というステージになっている。ほら、みんな未来を向いている。だから、子どもたちが頑張っているのを見たら、俺も頑張らなければいけないなって、思わせてくれるんだ」
 
 大会を開催する度、子どもたちがボールを夢中に追い掛ける姿を見て、来年もやるぞ、という意欲につなげてきた。
 
 その『原点』にあるのは2011年3月11日、震災直後の小学校の校庭で見た、無邪気にボールを蹴っていた子どもたちの姿だ。
 
「あの光景が『原点』にある。サッカーボールがひとつあれば、知り合いでなくても、誰でも楽しめる。ボールを蹴って、輪が広がる。そのきっかけを作れれば、それだけで俺は幸せだよ。サッカーで生きてきた。だから、そんなサッカーの小さな力になれればいいと思っている」
    
(文中、敬称略)

取材・文:塚越 始(サッカーダイジェスト編集部)

※「サッカーダイジェスト」2011年8月30日号より再録。一部加筆。