そこで、清水は校庭の片隅の光景に目を奪われた。
 
 数人の子どもたちが、校舎のどこかからサッカーボールを見つけ出してきた。避難所生活で溜め込んだエネルギーを発散する場を求めていた彼らは、校庭の一角の狭いスペースで、無邪気にボールを蹴り出したのだ。
 
 やがて、ひとり、ふたりと加わり、その輪は広がっていく。
 
「ははは、けっこう、上手いな」
 
 そう微笑む清水の周りでも、父母、お爺さん、お婆さんが子どもたちのボールを追い掛ける姿に目を細めていた。ドリブルをしていたちっちゃな子がすっ転ぶと、その観衆からどっと笑いが起きた。
 
 子どもたちの弾けた無邪気な歓声が、束の間、避難所に張りつめていた重たい空気を弛緩させた。誰もが久々に見せた笑顔。その中心にあったのが、ひとつのサッカーボールだった。
 
 清水は、心のなかで呟いた。
 
「サッカーって、やっぱりいいな」
 
 サッカーが復興のために重要な役割を担うとか、そんな壮大なことまでは思わない。しかし、こうしてボールを追いかけている間、なにもかもを忘れて夢中になれる。見ている人にとっても、一服の清涼剤ぐらいになる。サッカーの魅力。それって、純粋に素晴らしいじゃないか。
 
 サッカーの底力に触れた清水は、ひとつ決意をする。
 
 こうした子どもたちに、思い切りボールを蹴って、思い切りグラウンドを走ってもらいたい。そうだ、サッカー大会を開こう、と。
 
 郵便局の避難所に身を寄せていた清水は震災から4日目、道路に置きっぱなしにしていた車を拾い、仙台市内のマンションに戻った。まだライフラインは戻っていない。お世話になってきた近所の人たちに相談し、貴重なガソリンを少しずつ分けてもらい、5日目に実家のある埼玉に向かった。その道程でも大渋滞にはまるなど様々な困難にも遭遇した。
 
 埼玉に戻った後、震災の被害や被災地の状況を把握。仕事の関係先と調整して態勢を整えたあと、再び仙台に向かった。
 
 ――清水秀彦にとっての仙台とは?

 その問いに、彼はこう答える。
 
「いろんな人にお世話になったお陰で、たくさんの良い思い出を作ってきたよ。嫌な想いもたくさんしてきたけどな(笑)」
 
 ベガルタ仙台の人気の礎を築いたキーマンだ。J2時代の99年途中から仙台を率いると、元日本代表選手と既存戦力の融合を図って勝星を積み重ね、01年、東北初のJ1昇格を達成。翌年J1の舞台で開幕5連勝を果たすなどインパクトを残した。
 
 清水のタクトがサポーターと選手をつなぎ、仙台スタジアム(現ユアテックスタジアム)は劇的空間と化していった。
 
 しかし03年、仙台は開幕から低迷する。クラブは体制を変えずに最後まで戦うと公言していたが、シーズン終盤、清水は解任の憂き目に遭う。
 
 それでも、仙台には清水を必要とする人がいた。日韓ワールドカップ後、利用率が伸びずにいた宮城スタジアムと周辺施設について、関係者から「サッカー教室などを開いてくれないか」と請われた。
 
 04年、清水は現在のスポーツクラブの原点となる教室を敷地内の総合体育館で開校。その後、教え子150人を数えるまで広がりを見せた。宮城県内のみならず東北圏域の様々な地域で、講師やコーチとして招かれる機会も増えた。
 
「俺はそれまでプロ相手にしか監督をしたことがなかった。ただ、こうしていろんな世代を教えていると、正直、たくさんの発見をもらえた。教えるっていうより、俺が教えられることのほうが多かった」
 
 現在もテレビの解説などをしながら、年の半分ほどは仙台で生活をしている。仙台は、清水が多くの人を育て、そして自らも多くの人によって育てられてきた、第二の故郷――のようになっている。