震災の爪痕が残る2011年7月、「俺にはこれしかできない」と清水は宮城県内の10歳以下の子どもたちを招いた第1回大会を実現させた。写真:サッカーダイジェスト

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「こんちくしょう、パンクかよ!」
 
 車を走らせていた清水秀彦は舌打ちした。しかし、目の前の道路が不自然に波打ち、電柱が道路を覆うように倒れてこようとする。地面から猛烈に突き上げられ、車ごと弄ばれるように叩きつけられた。尋常ではない力によって、それが何度も繰り返された。
 
 パンクではない。地震だ――。
 
 2011年3月11日。清水は宮城県仙台市で代表を務めるサッカースクール「H.Sスポーツクラブ」の練習場に向かっていた途中、仙台港の手前で被災した。
 
 断続的に続く強い余震が、現状をいっそう不確かにし、不安を増長させた。事態を把握しようと練習場を目指したが、間もなく渋滞にはまる。
 
 すると、前からたくさんの人が車外に殺到し、引き返してくるのだ。
 
「この先は、もうダメだ」
 
「橋、落ちたよ、落ちた」
 
 橋が落ちた――? 清水がドアガラスを開けて身を乗り出すと、道行く人が一様に手を振り、逃げるように足早に去っていく。
 
 混乱が混乱を招く状況下で清水も車外に慌てて飛び出すと、この先の橋が崩れ落ちたと言うのだ。
 
「もう橋は渡れないし、この先、危険だよ」
 
 あの尋常ではない強烈な震動が、常軌を逸した被害をもたらしている。その時点で見当がついたのは、それだけだった。
 
 清水は車を置き捨て、市街地に向かう一群に加わった。気付けば先程までの晴天が嘘のように、空は灰色に覆われ雪が降り出した。驚くほど、冷たく感じた。少し離れた港のほうでは、黒煙が立ち昇っている。
 
 なにか得体の知れぬものからひたすら逃げる。味わったことのない恐怖と寒さに震えながら、足を速めた。
 
 その途中、知人と遭遇した。すると、あるスクール生の親が局長を務める郵便局の2階が、避難所として開放されたと聞いた。

 とにかく情報が欲しい。他に選択肢はなかった。その知人とともに、まさに藁にもすがる想いで、その避難所に駆け込んだ。
 
 しかし郵便局も停電しているため、今なにが起きているのか、という情報さえ得られなかった。清水は翌日のサッカー中継の解説の仕事に、どうすれば間に合わせられるかを考えた。どうにかして連絡を取りたいが……。そんなことを考える間に、再び余震が襲い掛かる。
 
 ひとまず、この夜を生き抜くことを考えなければいけない。着の身着のまま、一人ずつ渡された座布団2枚を使い、心さえ凍りつきそうな夜を過ごした。
 
 翌日、未曾有の大震災が東日本一帯を襲ったことを知る。しかも震源地が宮城県沖で、巨大な津波が今いる仙台にも襲い掛かったと聞き、全身の力が抜けた(首都圏のテレビで報道されていた詳細な被害状況までは、まだ把握できていなかった)。
 
 町は機能を停止し、人づての情報をもとに、ひとり2個ずつおにぎりを配給しているという近くの小学校に向かった。余震は続いていた。街全体が号泣しているかのように景観は変貌を遂げ、港の空の黒煙は範囲を広げていた。
 
 その光景がすべて現実なのだと受け入れようとすると、恐怖に立ちすくんだ。
 
 次に優先すべきは、スクールの子ども達や家族の無事を確認することだ。ようやく不安定ではあるが電話がつながり出して、震災のためサッカー中継が中止になったと分かったが、そのことはもはや二の次で良かった。スタッフや知人を通じて、手分けをして一人ひとり、家族を含めて連絡が取れるか確認していった。
 
 震災から3日目、清水は再び2個のおにぎりを貰うため、小学校を訪れた。校庭には避難してきた人たちの車が停められ、炊き出しの準備も進められていた。