恩師が語る巨人杉内の素顔 大減俸に隠された、強すぎる責任感

恩師が振り返る社会人時代の記憶、大減俸志願は「ある意味、杉内らしい」
巨人・杉内俊哉投手が今季の年俸5億円から球界史上最大の減俸額となった4億5000万円ダウンの年俸5000万円(推定)プラス出来高で契約を更改した。年々、痛みが強くなってきた右股関節を手術。来年の開幕が難しく、復帰時期も未定のため、自らが大減俸を申し出た形となった。球界に大きな衝撃を与えたが、杉内がプロ入り前に所属していた社会人野球・三菱重工長崎の監督だった小島啓民氏は「ある意味、杉内らしい」と話した。杉内の変わらない人間性が凝縮されているという。恩師が復活へのエールを込め、杉内との思い出を語った。
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私が杉内と初めて会話をしたのは、彼が鹿児島実業高校3年生だった1998年の鹿児島県大会。川内高校との決勝戦だった。見事なピッチングを披露し、3−1で勝利した後の県営鴨池球場のダッグアウト裏。決勝で投げあった川内高校の投手は、木佐貫洋投手。当時のプロのスカウトの評価は、杉内より木佐貫の方が高かったが、当時、三菱重工長崎の監督をしていた私の目には、杉内の体の強さと直向きさが強烈な印象に残り、「ぜひ一緒に野球をやってみたい」という気持ちが強かった。
「是非、うちに来ないかい」が第一声であったが、今一つ乗り気でなかった杉内の顔が鮮明に蘇る。福岡県の大野城というところで育った杉内は、母子家庭であり、祖父母にたいへん可愛がられており、将来、プロ野球選手になって、お母さんと祖父母の苦労に報いたい、と強く思っていたに違いない。
おそらく、プロ野球の道へ進めるのであれば、遠回りをしないで高校からプロで勝負したいと本人も含め、家族全員が思っていたはず。松坂大輔投手率いる横浜高校に甲子園で敗退し、高校野球の終わりが決まった後、杉内の実家に幾度となく足を運んで、社会人野球の素晴らしさを伝え、決して社会人が遠回りでないことを訴え続けた。そして最後に、「シドニーオリンピックに出場させる。それから3年後には逆指名ドラフトでプロへ進ませる」と杉内の祖父と約束し、三菱重工長崎への入社が最終的に決まった。
未来のことを簡単に約束することはできないが、色々な選手を見て来た中で、とにかく、別格の人材であることはその時点で分かっていたし、オリンピックと逆指名ドラフトにおいては、なんら難しいことではないと確信していたので、自分にとってはプレッシャーになるような約束ではなかった。
杉内は陰ながらの努力をする選手
三菱重工長崎に入社した杉内は、高校時代の疲労から肩、詳しくは肩甲骨の稼動域が狭まっており、ボールを全力で投げられる状態ではなかった。その原因を鍛えられた下半身と筋力不足の上半身によるアンバランスと考え、1年目のシーズンは軽いキャッチボール程度に抑え、ほとんど体力トレーニングに時間を費やさせた。
ランニングとウエイトトレーニングという地道な練習でも、与えられたメニュー以外に進んで黙々とこなす姿は、「1年目の選手に負けられない」と他選手にも大いに好影響を与えていた。「練習をやめろ」と言わないと、いつまでも練習するような選手であったと記憶している。その一方、大会中は、バックネット裏から試合のデータを取るような雑務も黙々とこなしていた。プロ選手になって、陽があたる華やかな場所ばかりを歩いている印象があるが、陰ながらの努力をする選手だった。
それは常に、育ててくれた家族への恩返しの念がそういった行動に現れていたことは説明する必要もない。1シーズンを体力トレーニングに費やした後、初めて投球練習を行ったが、高校時代に投げていた球速をはるかに上回るスピードをつけていた。社会人時代の最速は、150キロ程度であったと思う。真剣に力を入れて投げたら、おそらく今でもそれぐらいの球速は投げられると思う。
このように、「急がば回れ」という指導方法もあると勉強させられたのも杉内との関わりからであったし、その後の自身の指導者人生の大きな財産となった。杉内の大きな特徴は、投球の腕の振りのスピード感以上にホームプレート付近では速いということ。速い球を投げる投手は、いかにも速い球が来るというような力感溢れるフォームとなっているが、杉内はゆったりとしたフォームで力むことなく、腕を振る。打者は遅いボールが来るような錯覚を受けるが、手元では予想以上の速さのボールが来るため、対応ができないという状況に陥る。
何回も対戦していれば慣れてくるのでは、という疑問もあると思うが、打者はそう簡単に普通の投手とのギャップを埋められるものではない。この一番の要因は、鍛え抜かれた下半身にあり、特に内転筋の絞りによる上半身の捻転は他の投手よりも特徴的な部分である。今回の怪我もそういう部分が影響しているのかもしれない。
「これだけチームを愛した選手はいない」、社会人野球での忘れられない出来事
若い頃は、少し腕の位置が今よりも高く、どちらかというと状態を縦回転させる、少し折れたような投げ方をして、球の角度と勢いで打者を打ち取っていたが、ホークス時代の2年目あたりから少し腕の位置を下げて、横回転の体の回転を意識したフォームに変化していったように感じている。それによって、若い頃の力の縦回転の体の使い方から来るコントロールのブレがなくなり、低めにボールが集まるようになった。自分らしい理想的なフォームを掴み取ったと言えるであろう。
ホークス時代に悔しさのあまりベンチをこぶしで殴って骨折したことがあった。気の強い部分が強いが、性格的にはむしろ寡黙な感じである。あまり積極的に会話をする方ではないが、人一倍勝負にはこだわる。自分のことよりチームに迷惑をかけたということに重きをおくタイプでもある。忘れられない出来事がある。
私が三菱重工長崎の監督を終えると決めていた都市対抗本大会の準々決勝・三菱ふそう戦。2点リードの状況で前半からロングリリーフした杉内は、8回に同点、逆転の2本の連続本塁打を浴び、降板することとなった。マウンドへ向かい本人に交代を告げたところ、「すみません」と号泣して崩れてしまい、抱きかかえたままベンチへ連れて帰ったことを今でも鮮明に覚えている。今の選手の中に、これだけチームを愛し、責任を持ってプレーしている選手がいるのかと思いながら、試合には負けてしまったが、指導者冥利に尽きる瞬間であった。
一昔前ではあるが、子供たちに『好きな左投手は?』と問うと、みんなが「杉内」と応えていた。淡々と投げる姿と体が小さくてもやれるという象徴として、人気を集めていたのではないだろうか。
かなり難しい手術を受けたようであるが、みんなが杉内のカムバックを願っているし、何よりも今でも野球が好きな少年の憧れのためにまだまだ頑張ってほしい。もう一度、野球を始めた時のようにガムシャラな杉内の復活に期待したい。
小島啓民●文 text by Hirotami Kojima