昨季から今季にかけて飛躍の時を迎えている米倉。そのポテンシャルを育んだ少年時代に迫った。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)

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 JFLも経験したルーキー時代を経て、そこから着実に階段を駆け上がると、昨季はG大阪の三冠達成にも貢献し、今年7月にはA代表にも選出された。12月5日のJリーグチャンピオンシップ決勝・第2戦では、G大阪が逆転優勝を狙うこのゲームでのスタメンも濃厚だ。そんな米倉の急成長の土台となったのは、親友と切磋琢磨しながら目標に向かって邁進した日々だった。
 
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 生真面目な彼を中心に、仲間が集まって楽しいサッカーをする。米倉恒貴の少年時代は、この連鎖によって育まれた。
 
 1988年5月17日。米倉は千葉県千葉市で生まれた。サッカーをやっていた父と、その道に倣ってサッカーを始めた4歳上の兄の影響を受け、小学1年の時から自然とこのスポーツにのめり込んだ。
 
 地元のクラブチームである西小中台FCでプレーし、高いパスセンスと技術を買われ、5年時からスタートする地域選抜チーム『FC千葉なのはな』の一員としても活動。スペイン遠征も経験したが、その際にエスパニョールとの試合で、骨折するアクシデントに見舞われた。
 
「せっかくの海外遠征だったのに、彼は怪我で残りの試合に出られなかった。ただそれでも、あっけらかんとしていた(笑)。やんちゃで素直って感じでしたね」
 
 こう語るのは縄田健司氏。現在はFC千葉なのはなの監督を務める一方、なのはな接骨院を経営し、習志野高サッカー部のトレーナーとしても活動する。当時、スペイン遠征に帯同し、米倉らを指導した。
 
「彼は本当に小さかったけど、空間把握能力や基礎技術は高かった。でも県選抜にも入っていなかったし、決して目立つ存在ではなかったのも事実。むしろ亮平のほうが速いし、特長が際立っていた」(縄田)
 
 この『亮平』とは、現在アルビレックス新潟でプレーする山崎亮平だ。米倉と幼なじみで、小学、中学、高校と同じ道を歩んだ親友でもある。スピードに乗ったドリブルと高い決定力を持つ山崎のほうが目立つ存在で、身体が小さい米倉はどうしても見劣りしたという。だが、親友の存在が、のちのち米倉を上のステージに引き上げる要因となる。
 
 小学6年生の時に大きな転機が訪れた。縄田が中心となり、それまでジュニアチームだけ活動していたFC千葉なのはなに、ジュニアユースチームが作られたのだ。
 米倉と山崎はFC千葉なのはなの第1期生。タレント揃いだった当時のチームは、ジュニアユースの創設に伴い、高いレベルでの切磋琢磨を続けた。そうした日々を経て、米倉の心境にも変化が生まれたようだ。
 
「中学1年の頃から、身体ができてくるとともに、徐々に自信も備わってきた。中学2年時にはキャプテンをやって、リーダーシップも発揮していましたね」(縄田)
 
 もともとリーダー気質を有していた米倉だったが、小学校時代は身体が小さく、プレー面もどこか大人しかった。それが中学に上がって成長期に入ると、心身のイメージが噛み合い始め、自信の深まりとともに統率力も自然と身に付けていった。
 
 縄田の目にはその片鱗が見えていた。
「恒貴は罰ゲームでも一生懸命やる子でした。例えばミニゲームで負けて、スクワットやダッシュなどの罰ゲームが3回だとしたら、それ以上の5回、10回をやる。ラインまで走るような時も、足が届いた振りをするのではなく、必ずまたいで折り返す。とにかくサボりませんでした。これは昔指導に関わった福田健二(現・夢想駿其/香港)、玉田圭司(現・C大阪)、阿部勇樹(現・浦和)や羽生直剛(現・FC東京)も同じ。100メートルダッシュなどでも途中で力を抜かない。必ず最後までやり切っていた」