「私は大会に出ない」伊達公子が引き起こした騒動とは

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現在、日本のテニス界でもっとも有名な人物といえば錦織圭だろう。しかし、クルム伊達公子を忘れてはいけない。彼女は37歳で現役復帰後、ツアー優勝やトップ10の選手の撃破など信じられない活躍を見せている。しかし、1回目の現役引退をする前はもっと凄かった。
今回はそんな彼女の全盛期の輝きを紹介していこう。

【輝かしい成績】


伊達公子の1回目のプロ生活は1989年にスタート。相手の打ったボールをバウンドした直後に打ち返すという高度な「ライジングショット」を武器に1992年にツアー初優勝。その後も活躍して四大大会では

全豪 ベスト4(1994)
全仏 ベスト4(1995)
全英 ベスト4(1996)
全米 ベスト8(1993・94)

という輝かしい成績を残した。さらに世界ランキングでは95年11月に4位(錦織圭の最高ランキングと同じ)を記録するなど、名実ともに世界のトッププレイヤーの一員だった。

【1996年のグラフとの名勝負】


また伊達の凄さを象徴するのが、当時の"絶対女王"シュテフィ・グラフとの名勝負だ。
グラフは歴代の女性選手の中でも最強に近く、男子に例えるなら全盛期のフェデラーと対戦するようなもの。1996年、そのグラフに対して伊達は2度の名勝負を演じた。

フェドカップ
まず、4月に行われたフェドカップ。伊達はグラフと対戦するが、歩くのさえ痛いほどの故障を足に抱えて練習もできないほどだった。そのせいか、第1セットを0―5としてしまう。
しかし、ここから信じられない逆襲を見せた伊達は7―6と第1セットを奪う。続く第2セットを落としたものの、最終セットでは12―10の大激戦の末、見事勝利した。
また、この試合では応援席で旗を振りまわして大声で応援する松岡修造が話題となった。

ウィンブルドン
続く7月に行われたウィンブルドン。準決勝に進出した伊達は再びグラフと対戦する。
伊達は第1セットを落とすが、第2セットを6ゲーム連取で取る。流れは完全に伊達であったが、最終セットを向かえる前に日没順延になってしまう。そして次の日に改めて行われた最終セットをグラフに取られて伊達は敗れてしまう。

とはいえ絶対女王のグラフと接戦を演じた伊達に多くの期待が寄せられた。このままでは4大大会優勝の日も近いのではないかと。
しかし、そんな絶頂期ともいえる1996年の9月、突然引退を表明する。当時まだ26歳、世界ランキングも8位という好位置であった。

【天才的なエピソード】


なぜ引退したかに言及する前に伊達のルーツを紹介していこう。伊達自身が「たまたま好きで始めたテニスが職業に」と語るように幼少から天才だった。
幼少期のコーチは「どんな体勢からでもボールを自分のものにできる。言葉で教えただけですぐ完璧なショットをマスターした」と語っている。また、天性の動体視力も凄まじく、高校時代にはバッティングセンターで野球経験がないのに、120km/hのボールに一度も空振りしなかったエピソードが残っている。

【良くも悪くも自由人】


そんな天才的エピソードが豊富な彼女はかなりの自由人だ。
専属コーチつけずに自分で練習メニューをほぼ決めていたし、契約等のマネージメントも本来、大手代理店がすべきことだが、伊達自身や家族などの身近な人が行っていた。

しかし、そんな自由な性格が災いして騒動が多かった。

相手の応援団にボール打ち込む
92年ウィンブルドン、負けた伊達は相手の応援団にボールを打ち込むという暴挙に出た。理由としては自分のミスに大喜びする応援団が気に食わなかったらしい。数年前に話題になった、自分のミスにため息をついた日本のファンに「ため息ばっかり!」と叫んだ場面とも重なるだろう。

アジア大会でのゴタゴタ
1994年にはアジア大会を巡って日本協会と揉めた。その過程では伊達は「私はアジア大会に出ない」と発言し、大きな騒動となった。後日、交渉の成果もあり出場が決まったが、「私は協会を許したわけではない。自分のために出るから団体戦も出ないし、日本代表としての団体行動も一切しない」と主張。その言葉通り、伊達はシングルス決勝で沢松奈生子と対戦したのだが、沢松がジャパンのウェアなのに対し、伊達は普段通りのウェアで戦った。
さすがの伊達もこのときばかりは「負けたら辞めるしかない」と覚悟したらしい。

協会と再び確執
しかし、伊達は1996年、再び日本テニス協会と揉めた。フェドカップを日本で開催するか否かの問題で、伊達は政争の具とされたのだ。この一件をきっかけに伊達は、日本テニス協会で唯一パイプのあった坂井利郎氏(かつて伊達の個人コーチを務めた人物)との関係も途切れてしまう。

【引退の要因と復帰の理由】


引退を発表
このようないくつものゴタゴタを経て伊達はついに引退を選んだ。理由については多くを話さないが、後のインタビューでは「引退のときはツアー生活に疲れ、勝ち続けなければいけないプレッシャーもあってテニスが嫌いになった」と語っている。
海外を転々とするツアー生活・トップ選手であり続けるプレッシャー・数々の騒動などによって精神的に参ってしまったのが引退の要因と考えられる。

2008年現役復帰
しかし、伊達はテニスコートに戻ってきた。
理由として「一度テニスを離れたことで、テニスの魅力を再認識したんです。」と答えている。かつては好きで始めたテニスを一度は嫌いになったが、また好きになって帰ってきたのだ。
また、伊達は「日本中でテニスはポピュラーになり切れていない。だから今は魅力を多くの人に知ってもらいたい」と発言している。かつて伊達が全盛のとき、テニスブームが日本で起きた。しかし引退後にすぐ終わってしまった。そのような事実を知っているからこそ、再びテニスを日本に根付かせたいと考えているのではないだろうか。
「負けない! ―挑戦することは楽しいこと―」(ポプラ社ノンフィクション)
(さのゆう)