大相撲中継の最高視聴率は1981年初場所に記録された52.2%。当時、関脇の千代の富士が全勝優勝を懸けて臨んだ千秋楽のことだった。
 この数字自体はスポーツ中継全体で見ると歴代18位にとどまるが、夕方という放送時間帯や、視聴者の目当てである千代の富士の取組が約1時間半の中継のうち、ほんの数分にすぎないことを考えれば十分にすごい数字だと言える。
 結果、千代の富士は横綱・北の湖との本割に敗れたものの、両者による優勝決定戦で勝利。このとき、瞬間視聴率は65.3%にまで跳ね上がった。仕事中のお父さん方を除いた国民の大半が、テレビの前に集まったといっても決して過言ではなかろう。

 体格に勝るあんこ型の力士たちを、正面からの力勝負でなぎ倒す--。そんな強さに生来の精悍な顔つきも加わって“ウルフフィーバー”と称される一大ブームが巻き起こった。
 「千代の富士が革命的だったのは、それまでは伝統芸能のカテゴリーともされてきた大相撲の世界にスポーツの概念を持ち込んだところです。脱臼しやすい肩を筋肉で守るためという必要に迫られたこととはいえ、従来の相撲界では軽視されたウエートトレーニングに励み、そうして作り上げた筋肉隆々の身体は、大相撲を格闘技としてファンに再認識させることになりました」(スポーツ紙記者)

 しかし、近代的トレーニングは“もろ刃の剣”ともなった。
 通算1045勝。31場所の幕内優勝に53連勝、さらには国民栄誉賞。そうした数々の記録から「常勝横綱」と記憶する人もあろうが、実際には横綱昇進後も度々故障に見舞われている。
 その都度「引退危機」を囁かれ、そこから不死鳥のごとく復活して幾多の記録を成し遂げてきたのが実際のところであった。

 そんな千代の富士の横綱在位10年目となった1991年。初場所では幕内通算805勝の大相撲記録(当時)を樹立したものの、その後の取組で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休したことにより、何度目かの限界説を世間が言う中で迎えた復帰の5月場所。その初日の相手が貴花田、後の貴乃花であった。
 元大関・貴ノ花の実子という血統のみならず、入門前から関取としての才を見込まれた逸材。前場所では12勝3敗の成績で技能賞と敢闘賞をW受賞し、前頭筆頭まで番付を上げていた。

 千代の富士とは初顔合わせ。才能開花目前の新鋭対復活を期す古豪…。
 「前評判では貴花田に期待する声も多かったけれど、相手は相撲史に名を刻む大横綱。勝敗の予想はまったくの五分でした」(同・記者)

 呼び出しを受けて両力士が土俵へ上がる。
 この数場所でどんどん力士らしい身体付きとなり、体格で大きく上回る貴花田。一方、休場明けでいくらか覇気を欠くようにも映る千代の富士。
 行司の軍配が返ると貴花田は迷わず頭から突っ込む。出足で後れを取った千代の富士は素早い前さばきでまわしを取ろうとするも、貴花田がこれを許さない。逆に前まわしに手を掛けた貴花田はここを勝負どころと一気に前に出て、倒れ込むようにして全体重を浴びせたところで千代の富士が土俵を割った。
 いかにも新鋭らしい懸命な相撲ぶりに、館内は割れんばかりの歓声に包まれた。視界を遮るほど次々と座布団が宙を舞う。18歳9カ月での、史上最年少金星でもあった。

 敗れた千代の富士に対しては、またもや引退説が持ち上がったものの、取組直後の会見ではこれを言下に否定する。
 「このときの千代の富士にはまだ“土俵勘が戻らないところを若手の勢いにやられただけ”という気持ちがあったのでしょう」(同)

 だが、二日目は勝ち星を挙げたものの納得のいく内容とはいえず、三日目、貴花田の兄弟子・貴闘力に“とったり”で土俵下に投げ飛ばされるという横綱らしからぬ敗戦を喫すると急転直下、引退会見を開いた。
 初日、貴花田の勢いに負けたのではなく、自身が衰えたのだという現実を受け入れるまで、二日の間を要したとも言えようか。 「気力、体力の限界」
 昭和最後の名横綱から次世代の俊英へ、新時代を託された瞬間だった。