独立リーグで生まれた縁 日本ハム・大谷翔平を支える担当広報

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高校野球で挫折を経験し、海を渡る


「いやーっ。もう比べるなんていうレベルではないですよ」
 青木走野(そうや)は、数年前の自分と目の前で繰り広げられるプレーを重ね合わせて、笑いながらこう言った。
 ひさびさに見た彼の姿は、いくぶんふっくらしていた。「現役」を退いてすでに4年、仕事以外で体を動かすことはすっかりなくなった。しかし、現在、裏方として支えているプロ野球の世界は、確かにあの当時、目指していたゴールだった。

 野球に明け暮れていた少年は、強豪ひしめく神奈川県の名門校に乞われるかたちで入学した。目の前には、甲子園への道が開けていたはずだった。しかし、半年もしないうちに青木は野球をやめてしまう。

「なにか問題があったわけではないんですけどね。でも、純粋に野球を楽しむことができなかったんです」

 当時について、青木は多くを語ろうとしない。しかし、日本のスポーツ界のある種の悪弊が、ひとりの球児の夢を摘んでしまったことは確かなようだ。
 同時に青木は、高校も辞めてしまった。そして、閉塞感を打破すべく、海を渡った。

「両親には、無理をしてもらって。感謝してます」

 つてを頼ってオーストラリアの高校に留学、地元クラブチームで3年間プレーした。

「勉強は大変でしたね。なにしろ最初は英語が全然わかりませんでしたから。もともと勉強も得意ではなかったですしね。でも、追加課題をこなしたりして、なんとか卒業しました」

 10代にして、たった一人のホームステイ。ホームシックにもなった。それでも、卒業までこぎつけたのは、野球あってのことだった。

「やっぱり、日本で高校中退したんで、負けられないっていう気持ちは強かったですね。ここまで来て、続けなかったらどうすんだって、自分に言い聞かせました」

縁を感じる大谷兄との出会い


 高校卒業後、そのままオーストラリアに残る道を選ばず、帰国した。大学に進んで野球を続けることも脳裏をかすめたが、高校時代のことを考えると、踏み出すこともできなかった。なすすべなく、アルバイト生活を送りながら地元クラブでプレーしたが、楽しむことにウェイトを置いたクラブチームでは「その先」が見えなかった。

「変な話なんですが、オーストラリアでプレーしているうちに、『プロ』っていうのが目標になってきたんですね。自分のやりたいことが見えてきたっていうか。だから、もっと上のレベルでプレーしたいっていう気持ちになりました」

 貯金ができると、アメリカに渡った。実績のない青木にプロチームとの契約は舞い込んではこなかったが、プレーした本場のクラブチームのレベルは、日本のそれとは比べ物にならなかった。ここで2年プレーしたあと、青木は帰国し、NPB球団、独立リーグのトライアウトを受験する。このとき青木は、巨人のテストの最終メンバーまで残った。

「その中のひとりがドラフトにかかったんですよね。それで、俺だっていけるんじゃないかって気持ちになりました」

 夢が手に届くところにきた瞬間だった。NPBとの契約はならなかったものの、四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスとの契約を勝ち取った青木は、独立リーグではあるものの、「プロ野球選手」としての一歩を歩むことになった。

 ルーキーの月給は一律10万円。それでもこの球団は、全寮制で住居費はゼロ。出て行くのは光熱費と食費だけだったので、経済的に困ることはなかった。

「野球用品に関しては、年間でバット2本、スパイク2足が支給されました。だからバットなんかは折れちゃうと、あとは自腹でしたね」

 寮は二人部屋、人懐こい青木はすぐに同室者と打ち解けた。

「まあ、同室になったんで、いろいろ話しますよね。それで、兄弟いるの、ってことになって。僕の兄(智史、広島-米マイナー-BCリーグ新潟)はプロでやっていたんで、そのことを話すと、むこうも弟さんの話をしだして」

 その選手の名は大谷龍太といった。

「それで向こうが、今度、弟が花巻東(高校)に入ったんだ、って。そのときはふぅーんっていう感じでしたけどね」

 この弟は、まだ高校入学を待つ中学生に過ぎなかった。このときの青木には、わずか3年後に球団スタッフとしてその少年のサポートをすることになるとは思いもつかなかった。

「はじめて会った時には、選手としてはとっくに追い抜かされていましたけどね」
 青木は笑う。

夢見た舞台の裏方となる


 結局、彼の「プロ生活」は2010年の1シーズンで幕を閉じた。43試合に出場して39打数4安打の.103、三振は実に10を数えた。シーズン終了後、待っていたのは戦力外通告だった。

「アメリカで3割打ってたんで、ある程度やれるとは思っていたんですが、レベルって言うより野球の違いに順応できなかったですね。身体能力では決して劣ってはいなかったですけど、それをフィールドで活かすことができなかったという感じです」

 それでも他の独立リーグのトライアウトに挑戦した。しかし、合格を勝ち取ることはできず、練習生としてアイランドリーグに戻ることにした。まだ選手が集まっていない年明け早々に高知入りした青木は、開幕までの3カ月をけじめとして、それまでに選手契約を結ぶことはできなかったら引退する決意をした。しかし、思いは思いのまま、球団は、青木を戦力と見ることはなかった。

「やりたいことはあるのか」

 この先どうしようと悩んでいた青木に球団副社長の北古味潤が声をかけた。

「農業、考えてみないか」

 高知ファイティングドッグスは、収益改善の一環として、農業ビジネスに参入しようといていた。過疎化の進む地元の休閑地を耕し、できた産品を試合会場で売るなどして収入を得ようという新たな収益の道を模索していたのだ。
 青木はこの話にのった。球団職員として、ちょうどチームが飼い始めた牛の世話を始めることになった。

「高知のみなさんには、ホント、よくしてもらいました」

 どうしてもNPBの球団で、というわけでもなかったという。インターネットを見ていたときに、偶然目に飛び込んできたのが、ファイターズの球団職員募集の告知だった。2012年11月、青木は面接を受けるために上京した。

 長い海外生活のおかげで堪能になった英語とその気さくな人柄が目に付いたのか、青木は見事採用されることになった。このとき日本ハム球団が新たにスタッフを募集することになった理由は、取材が殺到するであろう、ゴールデンルーキーの担当広報の必要性を感じたからだった。

 高知球団に暇乞いをし、青木は初めて北海道の地を踏んだ。ここで、青木は初めて、元ルームメイトの弟に顔を合わせた。以前、話に聞いていたその少年は、すでにただの少年ではなくなっていた。

「翔平とは同じ日に契約したんですよ。待合室が同じだったんで、挨拶しました。向こうは親御さんと来てたんですけど」

 新しいシーズンが始まって、目の当たりにしたプロの世界は、それまで身を置いてきた野球の場とは別世界だったという。とりわけ、自らが担当することになったゴールデンルーキーは、その中でも別格であった。球団職員として飛び込んだその場所で、青木は改めて自分が目指していたものの遠さを感じた。

「すごく距離を感じましたね。翔平なんか、自分たちなんかとはまるっきりモノが違いました。比べるだけ失礼ってやつですよ」

 自らが叶えることのできなかった夢の舞台の真ん中に、今、自分が支えている大谷翔平が立っている。酷な質問かもしれないが、青木に自分がどうしてその舞台に立つことができなかったかを聞いてみた。

「やはり、絶対行くんだという強い気持ちが足りなかったと思います。それは独立リーガーの多くに共通していることでしょうね。今、自分がそこにいるのは、何かしら変えなければならないところがあるはずなのに、それを変える努力が足りなかった。実際ここに来て思ったことは、NPBの選手の練習量の多さでした。僕の想像をはるかに超えてましたね」

 それでも、青木は、寄り道だらけの野球人生を悔いてはいない。

「これでよかったと思います。そのときどきで自分で選んだ道ですから」

 今、彼は裏方として、自分が立つことのできなかった夢の舞台を支えている。

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