90年イタリア大会でのディエゴ・マラドーナとギド・ブッフバルト【写真:Getty Images】

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90年イタリアW杯優勝の立役者となった元西ドイツ代表ブッフバルト氏

「ピークを持ってきた第1戦で快勝し、これならどことやっても勝てると思えた」――ギド・ブッフバルト(元西ドイツ代表/元浦和レッズ)

 ワールドカップ(W杯)で優勝をするようなチームは、大会の終盤にかけてコンディションを上げていくのが定説になっていた。

 典型的なのが、1982年スペイン大会を制したイタリアだ。1次リーグでは3引き分け、1勝もしていなくて3位のカメル―ンとは勝ち点ではなく、ゴール数の差で上回り、辛くも2次リーグに進んだ。しかし、2次リーグでは前回王者のアルゼンチンと、黄金のカルテットを揃えたブラジルを連破して優勝へと突っ走った。

 だが、90年イタリア大会の西ドイツ(当時)は、おそらく第1戦で最高の試合をして、その勢いを利して戦い抜いた印象が強い。ギド・ブッフバルトは、その立役者の一人と言えた。

「大会前には優勝できる自信なんて、まったくなかった。とにかく組み合わせ抽選が行われ、第1戦で強豪のユーゴスラビアと対戦することになったので、それからこの試合にピークを持ってくるように準備をした。相当苦戦が予想されていたので、危機感を持って臨んだよ」

 旧ユーゴスラビア代表は、後にジェフユナイテッド千葉や日本代表を率いるイビチャ・オシム監督の下で、同国史上最高とも言われる伝説的なメンバーを揃えていた。もっとも監督の立場からすれば、オシム氏は自国メディアから大きなプレッシャーを受けていた。真相は疑わしいが、オシム氏自身はこう語っている。

「敢えて第1戦ではメディアが望むようなメンバーで臨んだ」

 MFにストイコビッチとスシッチが並び、前線にもサビチェビッチと、“天才”3人が揃った。だが西ドイツは、序盤から期待値が高かったユーゴスラビアに敢然と立ち向かい、4-1で快勝する。ブッフバルトは、この試合を経て優勝へと目標が変わったという。

仲間を信頼し、マラドーナのマークを離れて攻撃参加

「それから4週間は、ビールを一滴も飲まないくらい集中したよ」

 そう言いながら、わざわざそれがジョークなのを説明するのが律儀なところだ。

「いや、ホントは食事の後とかに飲んだけれど、そのくらい集中したというたとえだよ」

 大きなヤマは、決勝トーナメント初戦のオランダとの試合だった。2年前には、地元開催の欧州選手権準決勝で1-2と敗れていたが、2-1で雪辱する。

「オランダ戦は個人的にも大成功だった。欧州選手権の時は、怪我でオランダ戦を欠場。僕が出なかったことが敗因だと言われた。それから代表に必要な存在になったと自覚したんだ」

 決勝の相手は連覇を目指すアルゼンチン。2大会連続で同じカードとなったが、4年前とは完全に立場が入れ替わった。結果は1-0だったが、ブッフバルトはディエゴ・マラドーナのマークを離して何度も攻め上がった。

「相手は中心選手が3人も出場停止で、マラドーナ以外はどこをとっても僕らのチームの方が上だった。攻撃に出ても、他のメンバーがカバーしてくれるから心配はなかった」

 大柄だが、実はテクニシャン。チーム内でのニックネームが「ディエゴ」だった男は、後に在籍した浦和レッズでも機を見た攻撃参加でサポーターを魅了した。

 ◇加部究(かべ・きわむ)

 1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。