一般に流布している言葉かどうかは分からないが、コトが起こった場所や時間がはっきりしているストレートニュースに対して、いつ出稿してもいいような“日付”のいらない巷間(こうかん)のニュースを、私たちはよく「ヒマネタ」と呼ぶ。

 わがライブドア・ニュースの若い記者諸君にも、折に触れて「ヒマネタを書け! 話題はいくらでもあるハズだ」とハッパをかけてきた。功を奏したのかどうか、先週から今週にかけて、私も「ウーン、なかなかいいね」と喜べるような立派な記事が何本か出ているようである。全国紙が書くような話の後追いばかりでは意味はないと思っているので、この傾向に拍車をかけたいと願っているところだ。

 一方、経験してきたのでよ〜く分かるのだが、このヒマネタ執筆にはある種の“陥穽(かんせい)”が潜んでいる。それは、話が余りに単純化される嫌いのあること。つまり、街中の話題で特にお涙ちょうだいをねらったような話になると、どうしても主人公を過度に美化してしまうし、たとえ動物や子どもをテーマにしたところで、安易に“日本一”や“こんなに健気(けなげ)で他人の心が分かる子どもがいたの?”といった風の、オーバー表現になりがちなことである。

 ただ、これは一種の宿命と考えることもできる。社会ネタはどうしても、登場人物の善悪をハッキリと二元化して考えてしまう癖があるもの。そして私も、「そこまでやるのかねぇ」と思うような単純化、オーバーな表現は何回も経験してきた。テレビになると、もっとヒドイと思う場合がある。

 一方で、ヒマネタの構図でとどまっているうちは、その記事の基本的性格がハッピーエンディングなので実害は少ないと言えるだろう。もしや、描かれた主人公が気に入ってくれるなら、さほど神経質になる必要もない。しかし、一般ニュースでしかも社会性の強いネタとなったときに、この“構図”が見え隠れすると、それは極めて問題だということになる。

 つい2、3日前にも、ある民放テレビ局で取り上げている「格差社会」や「差別による不当解雇」といったテーマの映像を見るうちに、そのコトを強く感じた。

 少し以前に放映されたこのシリーズでは、月収10万円に満たない独身女性高校講師の話が取り上げられていた。確かに50歳前後にもなって、講師とはいえ給与が10万にも満たないというのはひどい現実。暮らしていくのもままならないだろう。この報道だけ見て、格差社会の象徴と考える人もいるかもしれないが、この女性はほかの職業経験を経て、40歳過ぎてから教員免許を取った人と確か聞いた。いわば、条件はともかく自分で選んだ道なのだ。

 一方で、差別意識による不当な解雇といった話題もよくテレビで取り上げられる。テレビではお決まりで、Aさんは「ごく普通に真面目に働いていたにもかかわらず…」といった表現が多用される。そして、これまた決まって同僚の証言。「ウーン、いじめられていたように思いますね。…」。

 注意しなければいけないのは、ここでもモノの見方はあくまで一面的だということだ。始めからAさんを悲劇の主人公に仕立て上げようとしているので、それを否定する要素は端っから排除してしまっているのである。特に、ある種のテレビ取材にこの傾向・構図が多い。

 世の中に不当な差別による解雇、異常な勤務実態やサービス残業の横行があることは認める。しかし、Aさんがその犠牲者かどうかの判断は、複雑な点検が必要になる。ただ単に、差別に抗議して裁判を起こしたとか、地位保全の訴えを起こしたとの一点だけをもって、「独りで大組織と闘う、社会的差別の犠牲者」と短絡的に祭り上げてはいけないのだと思う。

 日本の企業社会にはまだ、タブーが多いことは感じている。何よりも「和」を尊ぶ傾向が私たちの社会にあること――そこから起こる悲劇もあることを意識したい。表現者として一方的な見方だけは避けるように、作業を通して自らを戒めたいところだ。【了】