スッタモンダと迷走を重ねた「郵政造反組」の復党問題は結局、安倍晋三首相が無所属議員11人の復党を容認したことで事実上の決着を見た。11人の復党は、12月4日の党紀委員会(笹川尭委員長)で正式に決まる見込み。一方、最後まで筋を通す形となった平沼赳夫元経産相(岡山3区)の復党は、当面遠のいた格好になった。しかし、この人の復党も何らかの妥協点が探られていくことになるだろうと考えるのは、少しうがち過ぎた見方だろうか。

 この際、ハッキリさせておかないといけないのは、今回の一連の出来事に、政治や民主主義の根幹に関わるマターが色濃く存在していることだ。私たちは、そのことを忘れてはいけないと思う。有り体に言えば、復党というのは何とも、国民を愚弄(ぐろう)した話なのである。

 国民のほぼ6割が、「復党に反対」という世論調査の結果が示され、安倍内閣の支持率も下がっているようなので、国民はおおむね健全な反応を示していると考えていいのかもしれない。その一方で、私は今回のような事態になることは、昨年の郵政選挙のときから予想されていたことであり、一種の“予定調和”の成り行きを示しているな、と思えてならないのである。

 政治記者の端に名前を連ねたこともある身としては、そもそも小泉純一郎なる政治家が、日本の首相になるなどということ自体信ずることができなかった(その後の長期政権も同様)。これはまさに、日本人が戦後政治の悪弊に苦しみ、自民党支配の横暴さに倦(う)んでいたときに、彼が颯爽(さっそう)と現れたことに起因。もっと言えば「自民党をぶっつぶす」という、その「できるかどうかは別にしてその意気やよし」という腕っ節への期待から来る、まさに歌舞伎を観るような“劇場型”の政治参加意識による結果だと考えている。結局、スタイル(立ち姿)が良かっただけなのだ。

 国民は政治が変わることを期待した。そして、政策の広がりと中身を実現できたかは別にして、小泉前首相は確かに政治を変え、世の中の仕組みを変えた(格差も確実に広がった)。

 しかし、どうだろうか。私には、自民党の政治家たちが本当に、この変化を変化として(自分たちの血肉になるものとして)受け止めていたとは考えられない。彼らは“小泉旋風”が通り過ぎることを、身を縮めながら待っていた。そして、その嵐は過ぎ去ったのだ――。

 「小泉政治の継承」などといったところで、安倍首相はしょせん、調整型の政治家である。政治家としての経歴は短く、大事に直面した経験も決して豊富とは言えない。後見人を自称するM氏やK氏の言い分を切り捨てることも、おそらくはできそうにない。そんな成り行きの中で、当然のごとく出てきたのが、今回の復党問題なのである。

 安倍首相は当初、落選組を含めた全員の一括復党を考えていたというが、これは本当のところだろう(あの平沼元経産相にしても立場は近い)。しかし、そこには大義名分がないことや、有権者の離反による安倍人気への影響、最終的には来夏の参院選への影響という数多くの問題が待ち受けていた。

 一方で、中川秀直幹事長への批判勢力、党の長老を中心にした反発も根強いものがあるといわれる。結局は参院のドンと呼ばれるA氏、最近はよくテレビにも顔を出す片山参院幹事長らの意向に逆らうことができなかったのが、本当のところだろう。

 しかし強調しておきたいのは、自民党内の事情と、今回焦点になった選挙によって信任された政治家たち(無所属議員)の地位というのは、全く別物の話だという点。もし、これで復党した各議員が自民党の都合で比例区に回るなどということになれば(いわゆるコスタリカ方式)、国民はこぞってこの政党に鉄槌(つい)を下さなければ民主選挙の意味は完全に失われる。

 復党予定の11人の多くは、自民党の公認どころか、わけの分からない“刺客”まで送り込まれながらも、自力で圧倒的な支持を集めてきた文字通りの“代議士”なのである。この人たちの地位を、自民党が自らの都合だけで右往左往させるようなことになれば、それは民主主義の根幹を破壊する自爆的行為だ。安倍政権の足元も、これから大きく揺らいでいくことになるのは確実だろう。【了】