紛争問題に関わる仕事は「長丁場」と話す小山さん。母校の筑波大学で(撮影:久保田真理)

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秋の訪れを感じさせる冷たい風が、彼女の長い髪の毛をフワっと浮き上がらせた。視線の先には「学生時代、授業をさぼって寝っ転がってばかりいた」という芝生が青々と広がる。小山淑子さん。32歳。彼女はこの日、母校の筑波大学の後輩80人に向け、国連で軍縮や小型武器回収に携わってきた経験を話した。現在、日本で博士論文を執筆する彼女は、国連職員としてスイス・ジュネーブや中央アフリカのコンゴ民主共和国・キンシャサで経験を積んだ国際派キャリアウーマンだ。

 小山さんは大学卒業後、大手書店でOLをしていた。「営業を担当し、販売促進のためのイベント企画を1年経験した。机の前に座りパワーポイントやエクセルに向かう日々だった」という。

 そもそも、アメリカへの留学経験から「紛争問題」に興味を持っていた小山さんだが、卒業間近に就職を決めていく同級生を見て焦りを感じ、「本好き」という理由からあっさりと書店への就職を決めた。

 就職から3カ月後の1998年7月、「ここでやっている仕事は一生の仕事じゃないと感じていた。そんなとき、私の運命を変える一報が入ったんです」。

 大学の恩師・秋野豊さんが国連視察中のタジキスタンで銃で撃たれ死亡――。PKO活動に従事していた国際政治学者の秋野さんが、身元不詳の武装集団に射殺され、殉職したという、当時、日本でも大きく報道されたニュースだった。「連絡があった日の天気まで覚えてる。お葬式には行きませんでした。そこで『終わり』という区切りをつけたくなかった」。

 「授業に出ない私を見つけて、『アイスをおごってあげるから、ちょっと話をしませんか』と話しかけてくれる先生だった」――。懐かしそうに目を細める小山さんは、学生の時、就職の時、秋野先生からアドバイスをもらい、大きな影響を受けてきた。彼女の中の“絶大な存在”の死はその後の彼女の人生を大きく左右した。

 「秋野先生に“宿題”を残された」とOLをやめ、イギリスの大学院に進学。卒業後は国連軍縮研究所(UNIDIR)の小型武器回収プロジェクト、コンゴで残存兵を帰国させるプロジェクトに参加して、本格的に紛争問題に関わっていった。「銃を突きつけられたことも一度や二度ではない」と平然と言えてしまうほど、人の生き死にを間近で目撃する過酷な職場で働いた。「先生の死に何となく関わっていたかった。それで秋野先生の死を弔えれば」という思いだったという。

 「先生を殺したことへの怒り、紛争で人が殺されることへの憎しみが私を突き動かしていた。でも、それだけでは仕事は続かない。人が人を殺すという問題に対して、多くの人は無関心。だからこそ、この仕事は『長丁場なんだぞ』と感じています」。

 恩師の“死”から「自立」し、一生の仕事として「紛争問題」という世界の“難題”に取り組む決意を彼女はこう表現した。

 OLから「紛争問題」へ。自ら切り開いていく道には「王道を通ってこなかったからこそ、自分ひとりでもやれるという思いはある」と自信をのぞかせる。(つづく

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