「結婚すると、経済的に楽だよ」--結婚適齢期にさしかかった人間に対し、こんな言葉をささやきかける人たちがいます。そして、この声は、同棲している恋人がいたりすると、ささやきではなくけっこうデカい声になります。結婚すればひとり暮らしをするより生活費が抑えられておトク、というのは確かにそうなのです。愛するふたりの生活が楽になるのはいいことのように思えます。

○契約結婚はホワイト企業への就職ともいえる?

しかしこの言葉は、こんな風に言い換えることもできます。

「経済的に楽したければ、結婚するといいよ」

こうなると事情は少し変わってきます。生活が前面に出てきて、愛情が見えなくなるからです。しかし、生活のための結婚だって、結婚であることに変わりはありませんし、この不景気ですから、生活のための結婚を真剣に望んでいる人もいるハズ。愛がないからダメだなんて、簡単に決めつけてしまっていいのでしょうか?

……というようなテーマに挑んでいるのが、海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ/講談社 KC KISS)。「このマンガがすごい!」の2014年オンナ編第8位を獲得するなど、マンガ好きの間でいま大注目の作品です。

主人公の「森山みくり」は、学部生時代の就職活動で内定がもらえず、大学院に進んでみたものの、そこでも就活に失敗。派遣社員になったはいいが、それも切られて無職に……という、仕事運に見放されまくっている25歳です。典型的な高学歴ワーキングプアと言っていいでしょう。そんな彼女は、父親の紹介で36歳の独身サラリーマン「津崎平匡」の家事代行をすることになるのですが、やがてふたりは経済的な利害の一致から事実婚を選択するに至ります。みくりは職を得られるし、津崎は生活費を節減できる。まさに「経済的に楽したければ、結婚するといいよ」のパターン。つまりふたりの間には愛はないのです。もちろん性生活もありません。あくまで「契約結婚」です。

「業務 給料 休暇 細かく決めていきましょう/家賃食費光熱費は折半で/冠婚葬祭で夫婦として出席しなければならない時は時間外手当をつけるということで」

みくり達が踏み切った「仕事としての結婚」は、一般的な結婚が愛情の名のもとにうやむやにしがちな部分を全てクリアにすることから始まっています。ふつうの結婚で「業務 給料 休暇」をきちんと決めるなんてことは、なかなかないことです。別に決めてはいけないというルールはないのに、なんとなくそんなことを言い出すは「愛情の欠如」のあらわれであるような気がして、何も言えないというのが正直なところではないでしょうか。特に主婦業というのは、労働条件のハッキリしない、24時間休みなしの仕事なのですから、せめて感謝の言葉が欲しいところですが、妻が心からうれしいと思える「ありがとう」を言える夫が多いとは思えない。

となると、妻とは愛情深く見返りを求めない人間でなくてはならないということになってしまうのですが、当然のことながら、そんなことをしていたらストレスがたまって爆発してしまいます。その点、契約結婚でサラリーマンの妻になったみくりには、そうしたストレスが一切ありません。雇用主である夫に対し、一定の敬意と距離感を持って接していれば、夫の方でも留守を守り家事をこなしてくれる被雇用者に対して、感謝の気持ちをコンスタントに伝えてくれる。夫の実家に行くときは時間外手当てがもらえるし、やることさえやってしまえば、夜外出しようと、遅くまで飲んでいても構わない。求められているのはあくまで「妻の仕事」であって、「妻らしさ」ではないのもストレスフリーの理由です。愛情という不確定要素が入り込まないので、いい意味で他人行儀でいられるみくりと津崎。結婚をひとつの仕事、ひとつの事業と捉えるなら、これはかなり健全な雇用関係ということになります。派遣切りに遭って不安な思いをしていたみくりは、ホワイト企業に転職を果たしたと考えることもできるでしょう。

○仮面夫婦生活のゆくえは

「利害の一致した相手との結婚」「いい意味での他人行儀」「愛情でごまかさない」という、非常にドライな考え方によって、逆に他人との共同生活がうまく行くという展開は、お見合いと似ているようにも思えます。しかし、みくり達の場合は、夫婦らしくふるまうことが努力目標ではなく必要な時だけの演技でもOKというところが、さらに気楽です。また、恋愛がベースにないという意味では友達婚みたいな感じもしますが、みくりと津崎は友達というほど仲良しではありません。とても独特で、しかし面白い結婚の形態です。でも、「他人行儀にふるまうなんて夫婦なんだからおかしい」とか言っているうちに全てがなあなあになってストレスの源になるぐらいなら、みくり達を見習って他人行儀エッセンスを少し取り入れてみるのもいいかもしれないと思わせてくれます。

生活上の協力はしても、精神的な依存関係にはならない。そんなふたりの夫婦関係ですが、実はいくつかの爆弾が隠されています。みくりに対する津崎の気持ちが「恋愛未満」ではなくなってきており、みくりの方でも津崎をけしかけて「役割としての「恋人」」を引き受けるよう仕向けはじめています。形ばかりの結婚という容れ物に愛情が注ぎ込まれようとしているのです。しかも、純粋に好きになったから恋愛するというよりは、恋愛という関係性を試してみる、という感覚が強い。事実婚を選んだ時も、経済的な利害の一致を理由にしていたふたりは、ここでも仮面夫婦生活を円滑に進めるために恋愛を導入しているのです。

本能や情動ではなく、理性と打算で営む結婚生活。しかし、不思議とそれが好ましく思える。というより、結婚という一大事業を成し遂げるのは、案外こういうカップルなのではないかという気がしてなりません……しかし逆に、本能や情動が抑えきれなくなった時、このふたりがどう行動するのかは、かなり見物。第3巻が発売されたばかりですが、最終話まで注意深く見守っていきたいマンガです。

<著者プロフィール>トミヤマユキコパンケーキは肉だと信じて疑わないライター&研究者。早稲田大学非常勤講師。少女マンガ研究やZINE作成など、サブカルチャー関連の講義を担当しています。リトルモアから『パンケーキ・ノート』発売中。「週刊朝日」「すばる」の書評欄や「図書新聞」の連載「サブカル 女子図鑑」などで執筆中。

(トミヤマユキコ)