育ててもらった親の恩義に報いたい。誰もがそう思う。だが、親を10年以上介護した経験をもつ鳥居りんこ氏は、介護が長期間に及ぶと、「気力、体力、お金を容赦なく搾取される」と振り返る。そして最後には「頼むから、今日、死んでくれ」と思うようにもなるという。命を削る介護のリアルとはどんなものなのか――。

*本稿は鳥居りんこ『親の介護をはじめたらお金の話で泣き見てばかり』(ダイヤモンド・ビッグ社)の第4章「介護で折れまくる心編」に著者が加筆したものです。

■なぜ子供の世話はできても、親の介護はしたくないのか

昨年、10年以上にわたる親の介護を終えた。そして今、こう思っている。

「できれば、やりたくなかった……」

自分を育てた親に対してどうしてそんな心ない言葉を発することができるのか。そう思われるかもしれない。しかし、「やりたくなかった」という思いは揺るぎない。

なぜならば、疲れたのだ。心底疲れた。

「親の介護」は、子供から「気力」「体力」「お金」という人生の3大要素を容赦なく搾取していくのだ。しかも、搾取される期限がいつまでか誰にもわからないために、このまま自分の人生が親の介護で終わってしまうような感覚に陥ってしまう。実際はそんなことはないのかもしれないが、そう感じてしまう。

もちろん、個人の感想である。親のことが大好きで、その恩義に報い、忠義を尽くす。そんな人として素晴らしい行為を全うできた方から見れば、私は親不孝者の代表だろう。

▼「頼むから、今日、死んで(でないと私が死んじゃう!)」

正直に言えば、昨年、亡くなった実母の最晩年には私は毎日、こう思っていた。

「頼むから、今日、死んでくれ(じゃないと、私が死んじゃう!)」

こうした愚痴は、親族などに伝わることもあり、こう言われつづけた。

「この罰当たり!」
「言霊ってあるから、あなたに災いが降りかかるよ!」
「誰もが通る道でしょ?」
「明けない夜はない」
「大事に育ててもらったんでしょ?」
「こんなに進行するなんて、(そばで)何をしてたの?」
「あなたならできる!」

ただ、こうした非難の締めくくりには、よくこう言われた。

「お母さんを頼むね」
「お母さんを大事にしてあげてね」

■介護期間1〜2年なら頑張りがきくが、5年超えると「刑罰」

これ以上、何を大事にして、どう頼まれたら、私は許されるのか……。「大事にしろ」と言う人は、その場限りしか滞在せず、「頼むね」と言う人は絶対に頼まれない。そうした事実は、介護の現場と同じくらい、私を苛むものだった。

好きで老いる人はいない。好きで体が不自由になる人もいない。介護を必要としている本人のほうが、情けなく、つらく、悲しく思っていることだろう。

しかし、老いた親が、その孤独や恐怖、不安や、痛み、不自由さ、ありとあらゆる不平不満をぶつける先が、こともあろうに主たる介護者(私)に集中することが問題をより複雑化させるのだ。

そして、私はこう思った。

「このままでは、母のことが大嫌いになる」。だから、その前にこの問題に終止符を打ちたかった。もし母が私のあずかり知らぬところで、ある日突然亡くなれば、私は親不孝を泣くだけですむ、とすら思っていたのだ。

▼夫婦で「親4人」を面倒みるうちに年老いていく

こんなふうに感じてしまう原因のひとつは、介護期間ではないか。

2015年7月、厚生労働省発表のデータをもとに現在のわが国における「介護期間」を算出すると平均10年だ。これは日本人の平均寿命(生存期間)から健康寿命(自立した生活ができる生存期間)を単純に引いたもので、厳密な介護期間とは言えないが、おおよその目安となるのではないか。介護期間は1〜2年ならば、まだ頑張りがきくのだが、5年を超えると何の刑罰かと思ってしまいやすい。

当然のことだが、夫婦単位で見ると「親」は4人いることになる。5年、10年と、親たちの面倒を看ているうちにわが身も年老いていく。

そしてだ。

■「親の恩義に報いたい」人が疲弊していく6つのこと

現在、国は「地域包括ケアシステムの構築」を進めている。これは「重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続ける」ことを目指すものだ。国民の多くは「自宅」で最後を迎えたいと考えており、そうした願いをかなえるものだといえる。

しかし、一方で、国は社会保障費の抑制を進めようとしている。この新しいシステムは、「国にはお金がないから、後は家族でよろしくね!」というものだともいえる。介護に疲れ果てた私はため息をつく。介護者の視点が抜け落ちていると、思うからだ。

まとめるならば、「親の恩義に報いたい」と頑張るキーパーソンは、次の6つのことで疲弊していく。

1 いつまで頑張れば良いのかの期間がわからない
2 兄弟姉妹がいた場合、役割分担がうまくいかずに不平等感に苛まれる
3 失禁、おむつ替え、移乗、通院付き添いなどの時間的・肉体的負担が重すぎる
4 親の妄想、暴言、繰り言、自分の睡眠不足によりメンタルがおかしくなる
5 扶養にかかる費用、介護離職に伴う損失、時間的制約に伴う家事の外注(自分の家族の食事の用意ができずにお総菜に頼るなど)、交通費などの金銭面の負担増加のあれこれ
6 文句は言われるが、誰からも感謝されずに、孤独に落ち込む

▼「人間には『親を看る』というDNAがないのよ」

特にウチの母は「娘なんだから、面倒を看るのは当たり前」「仕事よりも親のほうが大切。仕事を辞めて介護するべき」「今まで育ててあげた恩を返すのは当然」という姿勢を最期まで崩さず、私はどんどん疲弊していった。

「頼むから、死んでくれ(=もう私を解放して!)」。そんな自分の心の声に罪悪感を持っていたのだが、あるとき“救世主”が舞い降りた。知人のサイエンスライターに「同じような用事でも、わが子のそれは比較的、軽快にできるのに、母の用事だと一気にやる気が失せるのはどうしてなんですかね」と聞いたところ、こんな答えが返ってきたのだ。

「それはね、りんこさん、人間には親をみるというDNAがないからよ。あらゆる生命体には子の面倒はみても、親の老後をみるという遺伝子がプログラミングされてない。日本人はちょっと前まで、末子が15歳になるかならないかくらいで、みんな死んでいたのよ。親の用事をやってあげようかって思っても、その親は自らが用事を果たせなくなった段階で全員が死んでいったってこと。子どもがやる必要もなかったのよね」

■親の面倒をみることを心が拒否するのは仕方ない

ちなみに、平均寿命はこうなっている(厚生労働省「平均寿命の年次推移」より)。

1947(昭和22)年 男性 50.06歳、女性 53.96歳。
1970(昭和45)年 男性 69.31歳、女性 74.66歳。

サイエンスライターは続ける。

「子どもが親の用事をあれこれ、しかも長期にわたってやるようになったのはつい最近で、それもわが国だけの特殊のことだと思うわよ。つまり、DNAにもともと組み込まれていないことをやらなくてはならないってことはものすごい苦痛を呼ぶものだと考えられるわけ。だから、わが子の面倒はいつまでたってもみられるけれども、親の面倒をみることを心が拒否するのは仕方ないと思うわ」

そして、彼女はこう言ったのだ。

「もともとプログラミングされてないことを理性の力だけでやろうとしているんだから(親の介護を担っている人たちはそれだけで)逆にすごいと思いますね」

▼「文句は言われるが誰からも感謝されない」

私は母の介護をめぐって、「文句は言われるが、誰からも感謝されない」という現実に悩んでいたが、彼女の言葉で救われた気がした。

現在、介護で疲弊している人への特効薬は、残念ながらない。少なくとも私には「こうすれば疲弊を防げる」という方法や対策を伝えることができない。だが、家族の介護にかかわっているみなさんに、私はこれだけは言いたい。

「理性の力だけでやろうとしているんだから、本当にすごい」

このことはやはり、誇りに思っていいのではないかと思っている。

(エッセイスト、教育・子育てアドバイザー、受験カウンセラー、介護アドバイザー 鳥居 りんこ 写真=iStock.com)