今年は、日本が近代国家への歩みを始めた「明治維新」から150周年。国や自治体、民間で様々な記念事業が催され、NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の放送も開始されるなど、「明治ブーム」が起こっている。

この明治ブーム、外国人記者の目にはどう映っているのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第105回は、英紙「エコノミスト」などに寄稿するアイルランド出身のジャーナリスト、デイヴィッド・マクニール氏に話を聞いた──。

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─政府は内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設け、関連イベントを積極的に支援していく方針のようです。「明治維新礼賛」のようにも見えるこの現象を、マクニールさんはどう見ていますか?

マクニール 日本人の間で実際に「明治維新ブーム」が起きているかどうかはわかりませんが、内閣官房のホームページや安倍首相の「年頭所感」を見れば、政府がこの「明治150年」を積極的にアピールしようとしていることは間違いないでしょう。

安倍首相は年頭所感の中で、明治維新が起きた150年前、西洋列強の帝国主義によって植民地化の危機に瀕(ひん)していた日本の状況を「国難とも呼ぶべき危機」と表現しています。この「国難」という言葉が、昨年の衆議院解散総選挙の際に使った「国難」と同じであることは偶然ではないと思います。

安倍首相は少子高齢化や経済の停滞、拡大する中国の影響力や北朝鮮の脅威など、多くの問題を抱える今の日本は明治維新の時代と同じような「国難」に直面していると言いたいのでしょう。そして、その解決のための知恵を「明治の日本」から学び、「国民はひとつにまとまるべきだ」と強調したいのではないでしょうか。

もちろん、西洋の帝国主義から独立を守り、急激な近代化、産業化を成し遂げた明治維新や明治時代というものが、この国の歴史にとってポジティブな「誇らしいもの」であることは理解できます。そうした明治の日本人たちの努力によって、日本はアジアで最初の大国となり、経済的にも政治的にも国際社会で大きな存在感を持つようになった。

ただし、歴史というものは単純ではなく、「ポジティブな側面」があれば、そこには例外なく「ネガティブな側面」もある。当然、明治時代の全てが「良いこと」であるはずがありません。例えば、明治憲法下の日本では国民、特に女性に与えられた権利は、現行憲法と比べれば、はるかに限定的なものでした。

歴史の評価というものは、それを見る「立場」によっても異なるものです。例えば、2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された長崎県の端島(通称・軍艦島)は、日本にとっては近代化を象徴するポジティブな意味を持ちますが、韓国から見れば日本統治時代に韓国人が強制徴用された「負の遺産」です。

また、明治時代の体制にその後の軍国主義に繋がる「種」が仕込まれていたことを考えても、明治時代全体を単純に「ポジティブなもの」と捉(とら)えて国を挙げて礼賛することは、「歴史の多面性」という観点から見ても無理があると思います。

─ただ、そうやって過去の歴史を美化したり、自分たちの都合のよい形に解釈したり…というのは、日本に限らず他の国でもよくあるのでは? 特に、国が「落ち目」にあり、国民が自信や希望を失いかけている時には「●●人としての誇りを取り戻そう」とか「輝かしい過去を取り戻そう」という感じになりますよね。

マクニール そうですね。例えばイギリスだと、70年代〜80年代にかけて首相を務めたマーガレット・サッチャーがまさにその手法を使っていました。

経済的にも落ち込み、労働者の意欲も低下していた当時のイギリスに強い不満を感じていたサッチャー首相は「大英帝国」が繁栄の頂点にあったビクトリア時代を持ち上げて「あの栄光をもう一度」と国民にアピールしましたが、イギリスの植民地にされていた人たちから見れば、その「素晴らしいビクトリア時代」はネガティブな時代に他なりません。

私の母国であるアイルランドでも、しばしば「カトリックの信仰がもっと根付いていた時代はよかった」という形で過去を持ち上げる人がいるのですが、その人たちは当時のアイルランドでカトリック教会が強い権力を持っていた負の側面を無視しています。本来は複雑なはずの歴史を自分に都合のいい形でつまみ食いしたり、時には改ざんしたりする「歴史修正主義」はこのようにして生まれるのです。

─もうひとつ、明治維新礼賛を素直に受け止めづらい理由が、安倍首相が今年の最大の課題として掲げる「憲法改正」との関係です。2012年に野党時代の自民党が発表した「憲法改正草案」は、ある意味「明治憲法回帰」とも感じられる内容が少なくありませんでした。

マクニール 自民党内でも憲法改正案については様々な議論があるようですが、驚きなのは2012年の改憲草案がいまだに自民党のホームページに堂々と掲げられていることです。

この改憲草案を貫くのは、「個人」よりも「国家」を優先する明治憲法的な価値観です。森友学園の幼稚園で行なわれていた明治期のような教育方針や、日本会議のような極右団体の明治礼賛的な考え方と、政府の「明治150年」のキャンペーンが結び付いてしまえば、それは憲法改正にも影響を与えかねないでしょう。

─とはいえ、日本が多くの問題に直面し「自信を失っている」のも事実だし、困難な時代に直面した時、自分たちの歴史を振り返り「過去に学ぶ」こと自体は決して悪いことではないようにも思えます。官邸のホームページを見ると「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」というスローガンが掲げられています。我々は明治時代の人たちから何を学ぶべきなのでしょうか?

マクニール 「明治時代から何を学ぶか」という問いの前に、まずは「今の日本が直面している問題とは何か?」、そして「この先、日本はどんな国を目指すのか?」という目標を考えることが重要だと思います。

安倍首相はトランプ大統領と同様に「日本を再び偉大な国にする」ことを望んでいるように見えます。そのためには少子高齢化を克服して人口減少に歯止めをかけ、産業の生産性を上げてGDPを拡大させ、軍事力を強化して国際的な影響力を高める必要がある、と。しかし、それらの目標は本当に現実的でしょうか? そして日本を「再び偉大な国にする」ことが、この国で暮らす人たちにとって本当に必要なのでしょうか? そのために優先されるものと、犠牲になるものはなんなのでしょう?

世界の先進工業国の中で少子高齢化と人口減少の最先端を走るのが日本です。その日本がこの先、模索すべき将来像は必ずしも「かつての栄光を取り戻すこと」ではないのかもしれません。むしろ「賢く、幸せに縮んでゆく」、あるいは「小さくなること」のダメージを最小限に留めながら、今とは異なる、新たな価値観を作ることなのかもしれない。

─なるほど。トランプ大統領じゃないですが、目標は「メイク・ジャパン・グレート・アゲイン」じゃなくて「メイク・ジャパン・ベター」かもしれない、と。

マクニール そうですね。どうすれば「今よりもベターな日本」になれるのかを、まずは日本人自身が考えるべきじゃないでしょうか。「この国の目指すべき姿」をどう定めるかによって、「明治時代の先輩たちから学ぶべきこと」も変わってくるはずだと思います。

(取材・文/川喜田 研 撮影/長尾 迪)

●デイヴィッド・マクニール

アイルランド出身。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙「エコノミスト」や「インデペンデント」に寄稿している。著書に『雨ニモマケズ 外国人記者が伝えた東日本大震災』(えにし書房刊 ルーシー・バーミンガムとの共著)がある