日本の繊維産業は縮小の一途をたどり、アパレル業界の国産比率は、今や3%未満。この状況を縫製工場の技術力で打破しようという青年に会いに行った。工場直販ブランド「ファクトリエ」を展開するライフスタイルアクセントの山田敏夫氏だ。

海外製のファストファッションに席巻されているアパレル業界。現在、日本のアパレル業界の国産比率はわずか3%未満しかなく、ほとんどの商品は中国などアジア各国で製造されている。

この危機的な状況を、日本の縫製工場の技術力を生かして打破しようとしているのが、「Factelier(ファクトリエ)」を展開するライフスタイルアクセント社長の山田敏夫氏だ。

山田氏は1982年熊本県生まれ。中央大学商学部時代にフランスに留学、GUCCIパリ店で働いた。帰国後はソフトバンク・ヒューマンキャピタルに入社、次に「東京ガールズコレクション」のオンラインストアを運営していたファッションウォーカーにアルバイトとして入り、正社員に。2012年にライフスタイルアクセントを起業し、日本製にこだわった工場直販ブランド・ファクトリエを始めた。現在、銀座、横浜、名古屋、熊本(本店)に店舗を構えている。

工場直販ブランドで、日本のアパレル産業はどう変わる? 山田氏と田原総一朗氏の対談、完全版を掲載します。

■工場直販で日本のアパレル業界を救う

【田原】今日はファクトリエの店舗におうかがいしました。ファクトリエというのは何ですか。

【山田】工場直販のアパレルブランドです。優れた技術を持つ日本の工場と提携して商品をつくってもらい、僕たちのECサイトや店舗で販売しています。

【田原】ユニクロは製造小売りのブランドです。ファクトリエのビジネスモデルも同じですか。

【山田】一般的な製造小売りは工場が下請けで、工場名を表に出すのはタブーとされています。一方、ファクトリエは、工場自体が表に出て「ファクトリエby工場名」という名前で自社ブランドを持ち、価格も工場に決めてもらっています。各工場にとって、僕たちはファクトリエブランド事業部の責任者という立ち位置です。

【田原】価格は工場が決めるのですか。商品は山田さんの会社が買い取るわけですよね。工場の希望する価格だと採算が取れないんじゃないですか。

■日本のアパレル、国産比率はわずか3%未満

【山田】そこに日本のものづくりの大きな問題があります。田原さん、日本のアパレルの国産比率をご存じですか。20年前は50%あったのに、いまは3%を切っています。

【田原】えっ、そんなに少ないの?

【山田】もともと縫製業は世界的に見て原価の安い地域にシフトしてきた歴史があります。最初はイギリスのヨークシャー地方で発展して、次はアメリカに移ってニューヨークという町が生まれた。そこから雇用を奪ったのが日本で、さらにこの20年で中国に移ったという状況です。こうした流れの中で日本の工場は「原価を下げろ」という圧力にさらされてきました。具体的にいうと、1万円のシャツなら、工場に求められる原価は5分の1で2000円。生地が1000円だとすると、工場の取り分は1着1000円です。これを裁断・縫製から出荷するのに1時間以上かけていると、場合によっては最低賃金を下回ってしまう。これでは人を雇えないし、後継者も逃げ出します。その原価で採算を取ろうとすると手抜きして数をこなすしかなく、日本のものづくりの優位性である品質まで低下していきます。この悪循環を断ち切るには、工場にきちんと利益を得てもらわないといけません。

【田原】でも、原価が高くなれば小売価格も上がって、市場で売れなくなるんじゃないですか。

【山田】工場直販の強みで、市場価格は同じ品質の商品よりむしろ安いくらいです。僕たちは工場が提示した原価の2倍の価格で販売します。たとえば原価5000円なら1万円で販売して、工場と僕たちで5000円ずつです。同じ品質のシャツは2万円くらいで売られているので、市場でも十分に競争力があります。

【田原】中間流通を省いただけ安くできるということですか。

【山田】はい。アパレルの商品は、工場から消費者の手に渡るまで7つくらいの業者を経ます。流通のほかに、広告代も大きい。一般的に価格の10%が広告費といわれています。中間マージンや広告費を省くことができれば、工場が利益を得つつ適切な価格で消費者にお届けできます。

■大学3年生でフランス留学、初日にスリに遭う

【田原】起業までの道のりもうかがいましょう。ご実家は熊本で100年続いている婦人服店だそうですね。

【山田】戦前は呉服屋でした。そこからスポーツ用品を扱うなど紆余曲折があり、この50年は婦人服の専門店です。僕は2人兄弟で、兄がいます。兄はいま小学校の教師で、ビジネスをやるタイプじゃない。小さいころから、店を継ぐのは自分だろうなと漠然と考えていました。

【田原】大学の途中でフランスへ留学された。なぜフランスですか。

【山田】当時留学というとみんなアメリカでしたが、ファッションの本場は何といってもフランス。もちろん大学に入ったときはフランス語なんて話せません。単語帳を持ち歩いて勉強して、なんとか試験に通って留学できることになりました。大学3年生のときです。

【田原】渡仏初日にいきなりスリに遭ったそうですね。

【山田】僕は貧乏性なので、荷物を航空便で送らないで自分で抱えて持っていきました。スーツケース2つにリュックを背負って、ポケットには長財布。その格好で空港からパリ市内に向かう地下鉄に乗ったところ、乗り越えようとしたときに車内の人たちに邪魔されてスムーズに出られませんでした。なんとかホームに降りて振り返ると、車内の一団がこちらを見て笑ってる。あれっと思ってポケットを触ったら財布がない。気づいたときにはもう電車が動き出していました。

【田原】お金の類いは全部なくなったんですか。

【山田】はい。1年パスの航空券だったので、そのまま空港に戻って日本に帰ろうかと思いました(笑)。とりあえず大使館でお金を借りようとしましたが、それは無理でした。すがる思いで留学先の大学に電話したら、担当のフランス人が「自分のおばあさんがパリにいるから、そこに一緒に住め」と紹介してくれて、2人で暮らすことになりました。

【田原】お金がないと、勉強どころじゃない。どうしたんですか?

【山田】とにかく働かなくてはいけないので、雇ってくれというレターをいろんなところに出しました。パリの観光案内所にも「自分は日本語が話せる」と売り込みました。でも、「おまえは日本語を話せても、そもそもパリのことは何も知らないじゃないか」と断られました。考えてみたら当然ですよね。全部で28通出しましたが、このような調子でどこもまともに相手にしてくれなかった。ところが、一つだけ面接すると返信してくれたところがありました。それがGUCCIです。

【田原】GUCCIがよく面接しましたね。

【山田】奇跡です。渡仏したときはフランス語をまだ話せなかったのですが、暇でおばあさんの散歩につきあっているうちに上達して、最低限の会話ができるようになりました。おかげで面接でも「何でもいいからやらせてくれ」と伝えることができて、地下のストック整理からやらせてもらうことになったのです。

【田原】ストック整理はどんな仕事?

【山田】地下の真っ暗なところで、ひたすら値札をつける作業をしました。でも、逃げ出そうとしないで真面目にやってするやつは珍しいといわれて、まもなくギフトラッピングの係に昇格しました。こうして少しずつステップアップして、次はレジで免税手続きをやる係、最終的には売り場に立たせてもらって接客することができました。

■フランスで知った「お客様は神様じゃない」

【田原】GUCCIで働いてみてどうでした? 山田さんはご実家で売り場に立ったこともあるんでしょう?

【山田】驚いたのは「お客様は神様」ではなかったことです。実家の婦人服店の定休日は月1回。家族で温泉にいっても、お客様から電話がかかってきたら旅館から戻らなくてはならず、旅行が取りやめになったこともありました。日本ではお客様を神様にしてしまったために、お店の人、さらにものづくりの現場の人が奴隷になっているのです。ところが、GUCCIは違う。短パンにランニングを着た観光客が来るとドアマンが追い払うし、中国人のお金持ちが「このかばんを10個くれ」というと、「そんなに買わないでください」といってお断りすることもある。彼らはものづくりに誇りを持っていて、お客様と対等な立場で話すのです。日本の環境に慣れていた僕には新鮮でした。

【田原】日本とは考え方がずいぶん違いますね。

【山田】もう一つ、すごくショックだったことがあります。一緒に働いていたスタッフから、「日本には本物のブランドがない」といわれまして……。

■GUCCI「日本には本物のブランドがない」

【田原】どういう意味ですか?

【山田】フランス人は、アメリカのブランドのことを揶揄の気持ちを込めて「マーク」と呼んでいました。アメリカのブランドはメイド・イン・アジアなのに、ロゴマークをつけて、それをスターに身につけさせて高く売っている。いわば見せかけをよくするマーケティングの産物だというのです。日本はアメリカと違って織りや染めの長い伝統があるのにアメリカと同じことをやっている。そんなものは本物のブランドじゃないと。

【田原】実際、日本のアパレルはアメリカ型ですか。

【山田】先ほど紹介したように、アパレル生産の国内比率は3%以下。国内の有名ブランドもたとえばメイド・イン・チャイナです。現状では日本の技術が品質に活かされていません。

【田原】どこでつくろうと、安いなら消費者は歓迎するんじゃないですか。

【山田】それが安くないのです。たとえば当時、アメリカの世界的に有名なブランドのスニーカーはインドネシアで原価300円でつくっているという話でした。でも、店頭では3万円。バスケットボールのスタープレーヤーを起用することによって、高く売っているんです。GUCCIの同僚はそのことを憤っていて、日本はアメリカと同じことをすべきじゃないといった。その指摘が契機になって、僕も「いつか日本の工場から、世界に通用する本物のブランドをつくりたい」と考えるようになりました。

■帰国後、アルバイトからファッション業界へ

【田原】帰国後はソフトバンク・ヒューマンキャピタルに就職された。なぜアパレル業界ではなかったのですか。

【山田】僕が大学を卒業した2006年はアパレル業界の募集がほとんどなかったのです。家業の付き添いで展示会に行くと、メーカーの人は「この業界に先はない。やめといたほうがいいよ」という。昔からつきあいのある取引先の息子でしたから、本音で話してくれていたんだと思います。

【田原】ソフトバンク・ヒューマンキャピタルはどんな会社ですか。

【山田】Webメディアの広告や転職サイトの求人広告を扱う代理店です。もし世界ブランドをつくるなら、まず自分が個人として生き抜く力を身につけておかないと話にならない。そう考えて、営業力を鍛えられる会社に入りました。当時50〜60人くらいの小さな会社で、4年やって最後は営業部門の部長になりました。これでどこででもやっていける自信がついて転職しました。

【田原】次は東京ガールズコレクションを運営するファッションウォーカー(現ファッション・コ・ラボ)ですね。

【山田】いよいよファッション業界に入ろうと考えたときに浮かんだキーワードが2つありました。「インターネット通販」と「イベント」です。当時、ZOZOTOWNをはじめいくつかの会社がファッションのインターネット通販で伸びていました。また、東京ガールズコレクションには3万人の女の子が来て盛り上がっていた。ランウェイを歩くモデルが着ている服はその場で携帯から購入できて、その売り上げが何億円。この2つを経験できる会社がいいなと思って、ファッションウォーカーで働き始めました。もっとも、ここも最初はGUCCIのときと同じく裏方でしたが。

【田原】またストック整理ですか。

【山田】はい。倉庫で下請けの物流会社のおじさんたちと一緒にアルバイトで入りました。働きつつ、倉庫での改善提案をいろいろと上に上げていたのですが、いっこうに反応がありません。たまたま本社の役員が倉庫にきたときに直談判したら、「こっちまで上がってきていない。内容はおもしろいから、本社で面接する」とチャンスをもらって、本社勤務に。直後にその役員が社長になったので、社長直轄の部署に入って事業開発の仕事をさせてもらいました。

【田原】ここでも一番下から這い上がったわけね。ファッションウォーカーには何年ぐらいいたのですか。

【山田】2年です。実際に働いてみると、違和感がありました。当時、ファッションウォーカーは100億円の売り上げがあったのに赤字。物流とシステムを外部に委託していて、それが足かせになっていたのです。逆のことをやっていたのがZOZOTOWN。ほかの通販サイトが人気ブランドさえ取り揃えたら勝てると考えてブランド詣でをしていたときに、前澤友作社長は自社で倉庫を持ち、システムも自社で構築していった。その結果、即日発送が可能になって消費者の支持を得ました。ファッションウォーカーとの差は歴然としていましたね。

【田原】将来性がないと見切って辞めたのですか?

【山田】一番は、アメリカ式のマーケティングが行われていたことが大きかったです。メイド・イン・コリアで、300円でつくったものをモデルが着てランウェイを歩くと1万円になる。この現状を変えたくてファッションの道を選んだはずなのに、自分は何をしているのかと。GUCCI時代の友人が日本に遊びにきて、「あのとき話していたことと違うじゃないか」と言われて目が覚めました。

■日本の縫製工場が消えていく中、なぜ起業?

【田原】初心に戻って、いよいよ起業ですね。具体的な話をうかがう前にまず聞きたい。日本の縫製工場が消えていく中で、工場発のブランドをつくるのは、時代に逆行していると思いませんでしたか。理念はわかるけど、勝算はあった?

【山田】周りからは、自殺行為だと止められました。でも、僕自身は天の時がきたととらえていました。日本のものづくりが絶好調のときに工場に話を持ちかけても、相手にしてもらえない可能性が高い。でも、しんどい今の状況なら、この業界で一緒にイノベーションを起こそうといってくれる工場があるだろうと。

【田原】プラス思考ですね。さて、起業して何から始めましたか。

【山田】工場探しです。でも、工場は普通ホームページを持ってないからネットで探しても情報がない。なので最初は学校の教科書を開きました。

【田原】教科書?

【山田】地理の教科書には各地の特徴的な産業が載っています。それを見て縫製なら大阪が強いと知り、現地に行きました。

【田原】でも、大阪に行ってもどこに工場があるかわからないでしょう?

【山田】縫製業の中心だった地域はわかります。ただ、おっしゃるとおり個別の工場はわからないので、駅まで行ってタウンページを開き、片っ端から電話をかけて訪問しました。でも、ぜんぜんダメでしたね。朝から10軒ほど回りましたが、どこも門前払い。資本金50万円の会社の社長を名乗る若い男が訪ねてきて「インターネットで売りましょう」といったら、やはり警戒しますよね。お昼に「怪しい男が回っているので気をつけてください」という町内放送を聞いて、物騒なところだと思ったのですが、よく考えるとそれ、僕のことでした(笑)。

■地元・熊本で協力してくれる工場を見つけた

【田原】そうですか。大阪は全滅?

【山田】はい。まったく相手にしてもらえず地元の熊本に帰りました。そこで見つけたのが、「HITOYOSHI」という工場です。地元の熊本日日新聞に、HITOYOSHIの親会社が潰れて、同社が再建を目指しているという記事を見つけました。再建計画に自社ブランドをつくることを盛り込んだらどうかということで話をしにいき、ワイシャツをつくってもらうことになったのです。

【田原】大阪の工場はダメだったのに、HITOYOSHIの人はどうしてオーケーしたんだろう。

【山田】もちろんHITOYOSHIの社長も、僕のことを怪しいやつだと思ったみたいです。後で両親から聞いたのですが、僕が知らないうちに工場の人たちが店に来ていたとか。僕が万が一逃げても、親の店があれば払ってもらえばいいということだったんでしょうね。

【田原】初商品のワイシャツはどれくらいつくったのですか。

【山田】最低ロットの400着です。市販で3万円の品質のものを1万円で販売するのですぐ売れると思っていたのですが、最初はさっぱりでした。インターネットのサイトに登録しましたが、ページを見にくるのは僕一人。ほかにアクセスする人はいなかった。当時6畳のアパートに住んでいましたが、商品が大きな段ボールで15箱分あって、横になって眠れないほどでした。仕方がないので縦になって寝た記憶があります。

【田原】売れないと、工場への支払いができませんよね。

【山田】はい。仕入れは50%なので、工場には5000円×400着で200万円支払わなくてはいけません。そのお金をつくるには200着売る必要があります。とりあえず友達に電話をかけまくり、「ご祝儀で買ってくれ」と頼み込み、100着は売れました。あとはタクシー会社やホテルのようにワイシャツが制服の会社に営業をかけましたが、どこもクリーニング代込みで1000円程度の中国産を採用していて、まったくかみ合いませんでした。

■ネットではなく、着こなしセミナーでシャツを売った

【田原】結局、どうしたの?

【山田】ふたたび友達に「追加注文はないか」と電話をかけていたら、「山田の電話はヤバイ」という話が広がって誰も出てくれなくなりました(笑)。そこで頭をひねって「着こなしセミナーを無料でやります。希望者には品質のいいシャツを売ります」といろんな会社にかけ合いました。300件電話して11社のアポが取れたかな。インターネットで売ると言っておきながら、やっていたことは行商ですね。1カ月かけて、なんとか100着売れて支払いができました。

【田原】200着売れても、ワイシャツはまだ半分残っていますね。

【山田】これも苦労しました。僕は何もわかっていなくて、全9サイズを均等に発注してしまいました。それでも、売れるのは真ん中のMサイズばかり。大きなサイズが売れ残ったので、大きな人用にイベントをやったり、ゲーム会社に行商に行ったりして、少しずつさばいていきました。ゲーム会社はジャンクフードが好きな人が多くて、体の大きな人が多いので。すべて売り切る前にMサイズを買ってくれた人からリピートの注文が入り、しばらくは自転車操業でした。

【田原】シャツの次は何ですか。

【山田】シャツを買った人はネクタイを買うだろうと考えて、京都の丹後ちりめんの工場に手織りのネクタイをつくってもらいました。今度は学習して、本数は30本に抑えました。それまでシャツを買ってくれた300人のうち10人に1人は買ってくれるだろうという計算です。それからカーディガン、ソックス、カジュアルなシャツ、ジーンズというように少しずつアイテムを増やしていきました。

【田原】順調に回り始めるまでどれくらいかかりました?

【山田】オンラインでの注文で回り始めるようになるまで2年かかりました。それまでは週末は倉庫で日当7000円のアルバイト。平日は夜行バスで全国の工場を訪ね歩くという生活でした。

【田原】よく挫折しませんでしたね。

【山田】最初はつらかったです。訪問して邪険に扱われると、「工場のために頑張っているのに、なぜこんな仕打ちを受けなければいけないのか」と考えてしまって。でも、途中から「自分が好きでやっているだけだ」と思って気が楽になりました。それと、お客様になってほしい人に毎日手紙を書き続けていたことも支えになりました。

【田原】手紙?

【山田】日本の伝統や文化に理解がある著名人に、ファクトリエのことを知ってほしくて手紙を書いていたのです。反応はなかったのですが、これが精神衛生上とてもよくて。自分でコントロールできるのは、自分の行動だけ。やると決めたことを毎日きちんとやっていくことが救いになりました。

【田原】 いままでに工場をどれぐらい回りました?

【山田】約650です。そのうち提携しているのは43工場です。

【田原】向こうが乗り気なのに山田さんから断った工場もあったそうですね。苦労して回ったのにどうして?

【山田】残念ながら日本だからすべていい工場というわけではありません。原価の引き下げ圧力で手抜きを覚えてしまった工場も多く、むしろメイド・イン・チャイナのほうがいいというくらいのレベルのところもあります。世界ブランドをつくりたければ、そういう工場と組んではいけない。最近は工場のほうからご連絡いただくケースも出てきましたが、全30項目のチェックリストで難しいと感じたら、こちらからお断りしています。

■台北に出店、工場に新卒が100人入社

【田原】いま従業員はどれくらい?

【山田】正社員で20人です。店舗は国内4つ。売り上げでいうと、オンラインが6、店舗が4です。

【田原】今後の展望を教えてください。

【山田】今年の1月から台北に店舗を持ちました。その反応がすごくいいので、そろそろ世界にも積極的に出していきたいなと。もともと僕らはオンラインなので、月に100カ国以上の国からアクセスをいただいています。「Made in Japan」「fashion」で検索すると、ファクトリエが一番上に出てくるので。そのアクセス数が多い国から順に商品を提供していこうと考えています。

【田原】国内はどうですか。

【山田】国内は昨対比400%で伸びています。ただ、まだ経営が赤字の工場が多いですね。各工場の売り上げのうちファクトリエが3割を超えたら黒字化しますが、そのラインを越えるためにはファクトリエとして年間100億円の売り上げが必要です。なんとか20年までに達成できればと考えています。

【田原】まだ工場は苦しいですか。

【山田】ただ、確実に変わり始めています。じつはこの春、全工場合わせて約100人の新卒が入る予定です。これまでの20年間は新たに人を雇う余裕がなかったし、若い人も下請けの縫製工場に夢を持てずに見向きもしなかった。それがようやく人に投資できるくらいの利益が出て、自分たちでブランドをつくれるということで若い人たちも興味を持ち始めた。いいサイクルが生まれようとしています。

【田原】わかりました。楽しみですね。頑張ってください。

■山田さんから田原さんへの質問

Q. 「豊か」に暮らすにはどうすればいいですか?

 豊かさというと経済を指すのかもしれませんが、僕にとって豊かさの象徴は「言論の自由」です。昭和20年まで日本に言論の自由はありませんでした。じつはその後も同じです。僕は1965年に世界ドキュメンタリー会議に出るためにモスクワに行きました。当時、僕はソ連が素晴らしい国だと思っていましたが、行ってみると言論の自由がない。こんな国は豊かではない、すぐ潰れると思いました。ただ、帰国後にソ連はダメだと言えなかった。そのころは左翼全盛で、本当のことをいえばパージされるからです。

残念ながら、いまは逆の状況で、右翼を批判すると総攻撃を受ける空気が流れています。どんなに物が溢れていても、これは豊かではない。一人一人が空気に流されずに自分の考えをいえる社会が、本当に豊かな社会なのだと思います。

田原総一朗の遺言:空気に流されず自分の考えを言え!

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編集部より:
次回「田原総一朗・次代への遺言」は、ハヤカワ五味・稲勝 栞氏のインタビューを掲載します。一足先に読みたい方は、4月24日発売の『PRESIDENT5.15号』をごらんください。PRESIDENTは全国の書店、コンビニなどで購入できます。
 

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(村上 敬=構成 宇佐美雅浩=撮影)