新潟・新発田農業高から1998年のドラフト3位で巨人に入団した加藤健捕手(35歳)が、昨シーズン限りで静かにユニフォームを脱いだ。一度もレギュラーの座をつかむことはなかったが、第2、第3の捕手として巨人一筋、18年もの現役生活を送った希有な存在だ。

 キャリアの途中からは、レギュラーを目指すよりもチームのための控え捕手でいることに価値を見出し、最後まで戦い抜いた野球人生を振り返ってもらった。また、2012年の日本ハムとの日本シリーズで起こった”死球騒動”についても、この機会に初めて言及した。


キャリアハイとなった2015年はCSでも活躍

──18年もの現役生活でした。入団した時に巨人から感じたことは?

「18歳の時は、”レギュラーを獲る”との思いで入ってきました。でも、初めて野球をやっていて弱気というか、現実を目の当たりにしましたね。ブルペンに入ったら、桑田真澄さん、斎藤雅樹さん、槇原寛己さんがいた。ずっとテレビで見ていた方たちばかり。プロの投手は『外に行きます』と言って投げたら、正確に外のコースにくる。野球を離れても、隅々まで気を配り、いろいろなことを考えている。とんでもない世界に入ってきたと感じて、どうしていいかわからなかったです。そうしたなか、『石の上にも三年』という言葉が浮かびました。とにかく、辛抱して、しがみついて行動しようと心掛けました」

──2年目には一軍デビューを果たしましたが、その年のオフ、同じポジションに阿部慎之助選手が入団してきました。

「すごい人が入ってくることは、わかっていました。自分が巨人で生きるためには何かを変えないといけないし、どうやったら近づけるかを考えた。でも、高すぎる壁でした。野球の技術を磨いても、越えられる壁でもなかった。その時、自分の役割とは何かを考えるようになりました。もし阿部さんを抜くというイメージで野球をやっていたら、もっと僕の野球人生は早く終わっていたでしょう」

──控えでいることの難しさ、モチベーションの維持は大変だったと思います。

「正直、結構きつかったこともありました。いつくるかわからない出番への準備をして、いろんな想像をしながら待たなければならない。ですから、試合に出なくても疲れはあるんです。初めのプレーがどれだけ大事かというのも痛感しました。最初のワンプレーで結果を残せば、次の試合も自分は一軍にいられる。またよかったら次の日も。そこでよければ、もう1日、もう1週間……となるかもしれない。だから初めのプレーはどんな状況であろうと、人生かけるというか、必死でしたね」

──そうした努力を積み重ねた結果、プロ入り17年目の2015年がキャリアハイの出場数(35試合)でした。

「あの年はイメージ通りにいきました。最初に一軍に上がった時に準備はできていたし、それで結果を残せた。昇格の連絡をもらったのは、イースタンの試合があった静岡でのフリー打撃後。阿部さんの首の状態がよくないということでした。すぐ東京ドームに行けと言われて、大きな荷物を持ってひとりで新幹線に乗った。荷物が重かったので腕はパンパンに張って、そのまま試合に出たのを覚えています」

──一軍に上がった後はずっと試合に出ていましたね。

「実は、ある試合のクロスプレーであばら骨にひびが入っていたんです。でも、トレーナーのみなさんのおかげで、痛さは我慢できました。”これくらいの痛さなら、ひびが入ってもいけるな”と思うようになれた。やっぱり二軍に落ちたくないので……。今でもトレーナーさんには感謝しています」

──翌2016年シーズンは、一転して2試合の出場にとどまり、9月に球団から戦力外通告を受けます。しかし、そこで現役続行のために移籍を目指したのは、意外に感じた人も多かったと思います。

「(巨人の)堤辰佳GMからは(次の仕事の)お話をいただき、僕のことをすごく思ってくださいました。ただ、世間の会社の人もそうだと思いますが、違う部署でやってみたい思いがあった。移籍というのはタイミングです。一瞬のチャンスをつかんでものにした人も見てきましたし、絶対に成功すると思った人がそうでなかったこともあった。上司に必要とされるかもしれないし、されないかもしれない。そういうしびれるところにもう1回行きたい、スタートラインに立ちたいという思いはありました」

──巨人は二軍のホーム最終戦(読売ジャイアンツ球場)で、ちょっとした演出をしてくれましたね。

「堤GMに、始球式で長男とバッテリーを組ませてもらえないでしょうかと聞くと、快く受け入れてくださった。実は引退試合も考えてくれていて、高橋由伸監督も含め、進めてくれていたんです。ただ僕がわがままで現役続行にこだわった。ジャイアンツ球場では、新潟の両親ら家族を呼んで、野球をやっている息子が投手で僕が捕手。長女は僕の後ろに立ちました。子供たちに”パパはここで仕事をしていたんだよ”と、心に刻んでもらえればと思っていました」

──その試合で伝統のユニフォームを着るのが最後になりました。

「18年間着てきましたが、戦力外になって、次の日からユニフォームを着ることに重みを感じましたね。いつもは思わないのに、”俺、今日ユニフォームを着てるんだ”と不思議な気持ちになった。ただ、僕の中で(戦力外通告は)いつでもくるものと思っていたので悲しくはなかった。とうとう来たな、と受け入れられた自分がいました」

──結局、他球団への移籍はならず、12月にはチームメートの長野久義選手、山口鉄也選手からの引退試合というサプライズがありました。

「長野から”26日空いてますか? みんなで草野球やるから来てくださいよ”と電話があった。行ってみたら、そういう(送別の)場所を用意してくれていたんです。最後の打席はピッチャーの長野からライト前にヒットを打ちました。試合後には大きな花束をもらって、胴上げもされました。その前にあった捕手だけの集まり、通称・捕手会には、うちのキャプテン(坂本勇人)も自分の用事を切り上げて、僕のためにと駆けつけてくれて、はなむけの歌をプレゼントしてくれました。みんなに感謝しています。最後に野球をさせてもらえたのは、すごくよかったなと思います」

──ところで、引退を機に聞きたいのが2012年、日本ハムとの日本シリーズ第5戦のことです。多田野数人投手が投げたボールが頭部付近に来ました。判定は死球で多田野投手は危険球退場に。しかしその後「当たっていない」と物議を醸しました。実際はどうなのですか?

「ベンチに戻って映像を見たら当たっていなかったです。ボールが顔にめがけてきて、”当たった”と思っているから目もつぶっている。僕はそれまで頭部死球が2回あったんです。その時はヘルメットが割れて、何が起きたかわからなかった。(日本ハム戦の時も)同じように何が起きたかわからず、その場に倒れてしまいました」

──当たった感触はあったのですか?

「顔にボールが来ていたし、バントの構えからよけようとしたバットがヘルメットに当たったんだと思います。(場内の)ブーイングは聞こえました。映像を見て、逆の立場で考えれば僕だってブーイングしたと思います。でも、僕も審判の方をだますつもりはなかったですし、あの時は一瞬で頭が真っ白になってしまった。あの試合以降、多田野投手だって指先の感覚が狂ったかもしれない。審判の方も僕のせいでジャッジに迷いが出るようになったかもしれない。リズムを狂わせてしまい、迷惑をかけてしまった」

──試合中、ヤジ以外で反応はありましたか?

「次の打席(安打で出塁)でもヤジは聞こえました。でも、二塁に進んだ時に日本ハムの金子(誠)さんと飯山(裕志)さんがいて、”カトちゃん、ナイスヒット”とか、”おう、カトちゃん”と声をかけてくださった。飯山さんはファームで試合をやった思い出もある方。僕は”すいません”というのが精一杯でした。金子さん、飯山さんに声をかけてもらったのですごく楽になったというか、救われた。立ち直るのにいろんな人が、かかわってくれました」

──この件については、これまでコメントしてきませんでした。引退を機に話そうと思った理由は?

「ユニフォームを着ている間は何を言っても言い訳になります。一方で自分は逆の立場というか、相手の気持ちになって物事をとらえながら成長してきた。これから第2の人生をスタートしていく中で、いろんな人に逆の立場になって話をしたり、考えたりすると思う。それなのに、あの試合のあの場面を自分のポケットに詰め込んで新境地に向かう気持ちにはなれなかった。今さらと思われるかもしれないですけど、僕の中で5年もの間、ずっと引っかかっていた。忘れることがない試合です」

──18年間、巨人で学んだなかで特に伝えたいことは?

「技術がレギュラーの選手に届かなくても、人間性や考え方に限界はありません。技術が近づけないのだったら、考え方を変える。人間的にすごい人というのも野球界にはいます。そこに近づくことはできるかもしれない。僕は、違う方向で伸びていきたいと思ってやってきました。ジャイアンツは野球でも人間としても、成長、勉強できた場所でした」


誰もが認める誠実な人柄がプロ18年間を支えた

──いま巨人に感謝したいことは何でしょう。

「数え切れないくらいありますが、何もわからないまま18歳で新潟に出てきて、寮でお世話になりました。寮長の藤本さんや寮母の牧島さんが親代わりのような存在でしたし、家に帰ってきたようなリラックスできる空間を作ってくださった。納豆にネギをたっぷり入れてもらったり、ベーコンを1枚のところ2枚いただいたり(笑)。がんばったら、がんばった分、寮長が喜んでくれる。とても感謝しています」

──今後はBCリーグ新潟の球団社長補佐に就任します。野球をどのように広めていきたいですか?

「僕も18歳で新潟から東京に出てきて、18年が経ちました。新潟のことを知らないも同然なんです。プロでやってきて、自分が感じたことを地元に伝えていきたい。野球教室などもやって、新潟の野球振興に努めたいです。僕が初めてプロとキャッチボールをしたときはインパクトがありました。そういうやる気を出す手助けになれればいいなと思っています。どういうことをすれば貢献できるのか考えながら、僕の中でもスキルアップを感じていければいいなと思いますね」

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