■7月特集 ああ、涙の夏合宿物語(5)

 陽炎(かげろう)でゆらゆらとぼやけた視界の先で、忌々しいバッティング練習が延々と続いていた。

「早く終わってくれ......」

 そう願えば願うほど、皮肉にも時間が過ぎるのは遅く感じるものだ。仕方がない、もう一本走るか......と、再びダッシュをする準備をする。

「投手陣は、バッティング練習中はポール間走(レフトポールとライトポールの間を走るメニュー)をするんです。本数は決まっていなくて、バッティング練習が終わるまで。だから2〜3時間は走りっぱなしです。夏場だと体力を消耗して、だんだん意識が朦朧としてくるんです。ただでさえ蒸し暑いのに、グラウンドは人工芝なので下から照り返しがくる。門も閉まっているから投手陣は逃げる場所がない。とにかく『早く終わってくれ』と繰り返し思っていましたね(笑)」

 横浜DeNAベイスターズの守護神を務めるルーキー・山崎康晃は、ゆったりとした口調で淡々と、母校・帝京高校での「夏の猛特訓」の思い出を語った。

 春夏通じて甲子園優勝3回、準優勝2回。「東の横綱」の異名を取る東京の名門校・帝京。チームを率いる前田三夫監督は投手育成にこだわりがあり、特に右の本格派を数多くプロに送り込んでいる。代表的な例をあげると、伊東昭光(元ヤクルト)、芝草宇宙(元日本ハムほか)、三澤興一(元巨人ほか)、上野大樹(ロッテ)、大田阿斗里(DeNA)など。

 そんな帝京野球部時代の「夏の猛練習」を、山崎は「ひたすら体力をつけるための練習でした」と振り返る。ポール間走に代表される走り込みに、体幹強化を中心にした筋力トレーニングなど、たっぷりと時間をかけて体をいじめるメニューだった。

 もちろん練習は厳しかったが、それ以上に厳しさを感じたのは、競争の激しさだ。何しろ山崎の2年時には、140キロ以上の速球を投げられる投手がなんと7人もいた。同期には1年夏に最速145キロをマークして華々しいデビューを飾った鈴木昇太がおり、1学年下には「怪物」と呼ばれた伊藤拓郎(現群馬ダイヤモンドペガサス)がいた。投手陣は7〜8人のレギュラークラスで固まって練習するため、まずそのメンバーに入るという競争があった。

「そのクラスに入れないと、グラウンドの外に立って見ていないといけません。とにかく何かでアピールして、あの中に入りたいと思っていました」

 帝京野球部の夏休み練習は、長い一日になる。朝9時頃から夕方18時頃まで全体練習があり、その後も自主練習が続く。しかし、暑さのピークである昼の時間帯は、2時間も休憩時間がある。そこには、「倒れたら終わり」という前田監督の配慮があった。ところが、山崎はこの時間帯が憂鬱で仕方がなかったという。

「この間に弁当を食べなければいけないので......。『3合飯』を食べられなくて、僕にとっては苦痛でしょうがなかったですね。練習が始まって昼のことを考えるだけで憂鬱になって、昼休憩後にお腹いっぱいなのに動かなければならないのも憂鬱で......。監督から『食べないと、本当に(試合に)出さないからな』と言われて、タッパーをチェックされていました」

 体づくりにも力を入れる帝京は、3合分の白米をタッパーに入れて食べる「3合飯」という慣習がある。食の細かった山崎にとって、この3合飯は練習よりもキツイ、夏の難関だった。

「それでも、この厳しさがあったからこそ、ガムシャラにできたのかなと思います」

 入学時に57キロしかなかった体重は、高校3年時には70キロにまでボリュームアップ(現在は83キロ)。そして主力級になると通える、スポーツジムでのトレーニングで「球速がガーンと上がった」(山崎)という。

 高校3年夏の大会で背番号「1」を手にするまでに力をつけた山崎は、同年秋にプロ志望届を提出する。しかし、山崎を指名する球団はなかった。

「『プロ待ちでもいいから来てくれ』と声をかけてくれたのが、亜細亜大学でした。実際に指名がなくて大学を考えたとき、やっぱりウチはお金もないし、野球以外の道に進むことも考えました。そんななかでも亜細亜大学から『お金の面も考慮するし、もう一度整った環境で野球を学んでほしい』と言ってもらえて、それで大学に進むことを決めました」

 当時、東京近辺のアマチュア野球の現場で取材していると、こんな声を何度か聞いたことがあった。

「帝京の山崎が亜細亜に行くらしいけど、あんな気の優しい子が入ったらやめちゃうんじゃない?」

 東都大学リーグで輝かしい実績を誇り、幾多の名選手を輩出している亜細亜大。その練習・規律の厳しさは、大学野球ファンなら知らぬ者はいないくらい有名だ。当然、そのことは山崎本人の耳にも入ってきていた。

「『お前、たぶんやめるぞ』って言われていました(笑)。でも、そう言われるたびに『それしか道はないんです』と......」

 実際に入ってみて、やはり厳しかったですか? そう山崎に問うと、間髪入れずに「キツイっす。絶対に普通の人では耐えられないと思います」という答えが返ってきた。

「朝5時に起きて、アップをしないで5キロ走るとか......。かなりぶっ飛んでいるなと思いました」

 もちろん亜細亜大にも「真夏の猛練習」はあった。北海道・釧路で行なわれる夏季キャンプだ。涼しい北の地で、さぞ快適に練習ができるのかと思いきや、山崎は苦しそうな表情で「足がちぎれそうになる」と表現した。

「宿舎からグラウンドまで走ってこいと言われて、練習前に6キロも走らなければいけないんです」

 驚くべきことに、この練習前ランニングは生田勉監督も走るという。山崎が大学1年時点で生田監督は45歳。ただ選手にやらせるだけでなく、指揮官自らが走ることで独特の緊張感が生まれた。

「監督、普通に選手を抜いていくんですよ。みんな練習前に疲れないようにと最短ルートを狙ってパチンコ屋の駐車場を通ったりしていたんですけど、そんななかで監督が『富士山を登るのに近道なんてねぇんだよ!』と。それからはみんな、監督と同じ道を走るようになりました」

 グラウンドでみっちり練習した帰りも、行きと同じように6キロの道のりを走って帰る。もちろん、生田監督も一緒だ。「やる気がない」とみなされれば東京に強制送還されることもあり、選手たちは気を抜くことができなかった。

「この生活が2週間も続くと、本当に足がちぎれそうになります」

 そう語る山崎の言葉は、決して大げさには聞こえなかった。

 それにしても、高校・大学時代の7年間の話を聞いていても、陸上部のエピソードかと思うくらいに走る内容ばかりだ。これだけ走らされていると、「いいピッチャーになるために走る」という本来の目的が置き去りになって、「練習に耐える」という刹那的な目的にすり替わってしまいそうだ。そのことを山崎に問うと、こんな答えが返ってきた。

「走っている間って、フラットな気分になって、いろんなことが考えられると思うんです。失敗したときに『原因は何か?』と考えたり。ただ走っているだけじゃなくて、練習のなかで気づけないことや、いろんなことが気づけたのかなと思います」

 山崎にとって走ることとは、肉体のトレーニングであるとともに、考えるトレーニングにもなっていたのだ。そして山崎は、投手にとって「考えること」の重要性を力説する。

「言われていること以外に何かをやらないと、終わっちゃうと思うんです。考えないピッチャーって、引き出しがない。同級生や後輩を見てきても、才能はあるのに、考えることをおろそかにして、『もったいないな』と思うこともたくさんありました」

 今季、新人ながら開幕からクローザーを務め、39試合に登板して24セーブをマーク(7月26日現在)している山崎。プロレベルにすぐさま適応できたのは、高校・大学時代の猛練習で培ってきた「考える力」が大きな土台になっているに違いない。

 取材を終えて、インタビュールームを出ようとする山崎に最後「シーズンの疲れは出ていませんか?」と聞いてみた。すると、山崎は爽やかな笑顔を浮かべて、こう言った。

「全然ないです。だいぶ今までの貯金があるので!」

菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro