『共産主義者宣言』(訳・金塚貞文/太田出版/1993)

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 世界が赤く見えないか。

 それは戦火で街が炎に包まれているからか、流された血が大地をおおっているからか。あるいは憤怒で自分の眼球が血走っているためなのか。

 世界がどこまでもくすんだ灰色にしか映らない者は、引き攣った愛想笑いを浮かべながら隣人にへつらっていろ。世界が赤く染まって見える者は、途方にくれる前に左巻き書店をたずねろ。ここには、やつらに見えないものが見えてしまう者の存在に根拠を与える本が揃えてある。

 しばらく休業をもらった左巻き書店もいよいよ新装開店。左巻き書店の本棚に並ぶ本の中から、いくつかの視点に沿ってブックガイドをお届けしていく。まずは「いまこそ左翼入門」だ。世の中がそろって右へならえをし、左翼といえば唾されるいま。ほんとにみんな左翼が何かわかってるのかよ。この体制への反抗を企てる者も、左翼を批判する者も。いま、だからこそ、左翼とは何かを学べ。

「いまこそ左翼入門」ブックガイドの第一弾はもちろんこれだよ。そう。『共産党宣言』。

『共産党宣言』はカール・マルクスと盟友フリードリッヒ・エンゲルスによって共産主義者同盟の綱領として執筆された。綱領とは組織の基本方針を示した文章だ。1848年ロンドンで刊行。マルクスは執筆当時29歳の若さだった。革命組織の綱領として書かれた本書は、『資本論』などの理論研究書ではなく実践的な政治文書だ。ドイツ語原文にして1万語、岩波文庫にして50ページのこの薄いパンフレットは、世界各国語に翻訳され、長年にわたって読み継がれてきた。流布した冊数としても影響力としても『聖書』に比せられることもある。

 ところが、資本主義の暴威やその限界に関する議論がこれだけ世界中で盛りあがっているのに、『共産党宣言』は打ち捨てられたままに見える。資本主義の批判において『共産党宣言』こそが、有効な武器になるはずだのに。

 なるほど確かにいま、マルクスをマルクスとして読むのが、つまりテキストをテキストとして読むのが困難になっている。まずは『共産党宣言』を読むことを阻んでいる障壁を取り除き、もっと自由な読み方ができるテキストとして提示することからとりかかろう。

 テキストをテキストとして読めないのは、『共産党宣言』を読む際に、この書が執筆されて以降の歴史を読み込んでしまうからだ。もちろん読者も歴史に規定されているからには、それはどんな読書にも常につきまとう。しかし、『共産党宣言』においては特に過剰である。例えば「共産党」という一語をとってみても、日本共産党、あるいはソ連や中国の共産党、そしてその国家体制までを読み込んで理解してしまうのだ。マルクスの時代に存在しなかったものをマルクスのテキストに織り込んで読んでしまっている。

 それは読者の政治意識・歴史意識がそうさせているだけではなく、翻訳という作業自体が政治的な改作を忍び込ませ、巧妙に読者を誘導しているからなのだ。

 そもそもこの書はほんとうに「共産党」宣言なのか。先に述べたようにこの書が綱領として書かれた組織名は、「共産主義者同盟」であって「共産党」ではない。中央の厳格な統制による現在の共産党イメージの原型をつくったのはレーニンの前衛党論であり、『共産党宣言』とは無縁である。初版では『Manifest der Kommunistischen Partei』 であったが第二版以降『Das Kommunistische Manifest』となり「Partei(党)」という言葉は失われているように、「党」という概念が重視されていたとは言い難い。こうした問題意識に立って『共産主義者宣言』という新しいタイトルを与えたのが金塚貞文の翻訳(太田出版。のち平凡社ライブラリー)である。解説の柄谷行人は自分の発案であると述べている。さらに『筑摩書房マルクス・コレクション』では、今村仁司の主導の下、「共産主義」という言葉には生産組織としての側面が強すぎ、コミューン(共同体)としての解放的ニュアンスが伝わりにくいとして、手垢にまみれてしまった「共産主義」さえ放擲し『コミュニスト宣言』のタイトルが採用されている。ようやく党派的利害による改作が施されていない翻訳が手にできる時代がやってきたのだ。

 マルクスや共産主義関係文献といえば、日本共産党中央によって、以前から定着している「暴力」「プロレタリア独裁」の訳語の印象が悪いとして「強力」「プロレタリア執権」に改めると政策決定されれば、その系統の出版物の翻訳が全て変更されるという党派操作のもとでしか読めない時代があった。いまようやく初めて、党派性から解放されたマルクス理解のできる条件が整えられている。

『共産党宣言』は「共産党」宣言ではない、「共産主義者」宣言であり、「コミュニスト」宣言であると知った時、この書の読みは解放され、もっと自由になる。

 では、『共産党宣言』(便宜上一般に流布しているこのタイトルを用いる)をマルクスのかっこいいセリフとともに読もう。

『共産党宣言』といえばまず階級闘争史観をおさえなければならない。

「今日に至るまで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」との有名な一節にその歴史観が端的に表現されている。自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴など抑圧する者とされる者の絶え間ない闘いが歴史として展開されてきた。その階級闘争の歴史は、ついにブルジョア階級とプロレタリア階級の対立に至る。封建社会を打ち倒したブルジョアが支配階級となった現在の社会のありよう、ブルジョア階級が果たす役割が克明に描かれている」
「ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国境を超えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった」
「そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が現れる」
「かれらはすべての民族に、存続と引き換えに、ブルジョア階級の生産様式の採用を強制する。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわち、ブルジョア階級になることを強制する。一言で言えば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に似せて世界を創造するのだ」

 いまを生きる読者は、資本主義とは何かをつかもうとする手がかりとしてこのような記述に興味をそそられるだろう。あたかも現下の経済のグローバル化を解説しているかのようだ。もちろん資本主義の世界市場展開についてもいろいろ示唆に富んでいる。さまざまな角度から玩味するに十分値する。しかし、かと言って、現実と合致した文章を発見して予言者の如く崇めても仕方ない。

 むしろ、ここではマルクスの弁証法的な視点に注目すべきだろう。マルクスが弁証法的に歴史を描いているということの意味は、対立する階級が歴史を推進するということではない。ブルジョア社会の発展がそのままプロレタリア階級の勃興を準備する道程である、という裏腹な二面性の同在を指摘したことにある。

 それはこういうことだ。「ブルジョア階級が漫然と担ってきた工業の進歩は、競争による労働者の孤立化に代えて、統合による労働者の革命的団結を作り出す、それゆえ、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足元から、かれらが生産し、また生産物を取得していたシステムの土台そのものが取り去られる。かれらは何にもまして、かれら自身の墓掘り人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である」

 では、その逢着点としての共産主義とはどのようなものか。

「共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である」とマルクスは端的に定義する。

 私有財産が国有化されることが共産主義だという通俗的な理解とは異なり「共産主義は、社会的生産物を取得する権限を誰からも奪いはしない。ただ、この取得によって他人の労働を隷属させる権限を奪うだけである」「資本は、共同の産物であり、多くの人たちの共同の活動によってしか、そして究極的には、社会全員の共同の活動によってしか、機能し続けることはできない」「だから、資本が共同の財産に、社会全員に属する財産に変わったとしても、個人の財産が社会の財産に変わるわけではない。変化するのは、所有の社会的性格だけである。つまり、所有はその階級的性格を失うのだ」

「生活を再生産するための労働生産物を個人が取得することを止めさせようなどとは」考えていない。多くの人の共同によってしか、つまり社会的にしか生産されないものを、支配階級が占有することがなくなるのである。「やっぱりオレの財産を奪おうとしてるじゃないか」という者はいるだろう。それがブルジョア階級だ。プロレタリアは何も失わない。なぜなら失うものを何も有していないからだ。プロレタリアが失うものは鉄鎖だけである。

 プロレタリア階級が政権をにぎったらとるべき政策として、高度な累進課税や相続権の廃止などが挙げられている。これも近頃よく耳にするよな。

 こうして「階級の差異が消滅して、すべての生産が結合された個人の手に集中してゆけば、公的権力は政治的性格を失う」ところにまで進む。階級闘争の終焉とともに他階級を抑圧するために存在した政治権力というものも無化されるのだ。

 そして「階級および階級対立をともなった古いブルジョア社会に代わって、一人一人の自由な発展が、すべての人の自由な発展のための条件となるような連合体が現れる」とマルクスは告げる。

 所有や生産関係に重きを置いた従来の共産主義イメージに代わって、いまはこの一文に注目が集まっている。それはまた、徹底してひとびとの紐帯を断ち切り、個に解体して過酷な競争で対立を煽る、現在の新自由主義との対極の社会像でもある。

『共産党宣言』にはいまも汲むべきところが豊富にある。とはいえ執筆されたのはフランス革命の60年後、明治維新の20年前だ。マルクス、エンゲルス自身も、初版から25年後の刊行時に寄せた新たな序文では、時代遅れになった箇所や時勢の変化に合わせて書き換えるべき箇所があると述べている。超時代的にその片言隻句に至るまで正当性を擁護するような聖典でもない。

 しかし、それでも『共産党宣言』は現在に生きる書としてある。

『共産党宣言』がいつの時代においても新鮮な感動でひとをつかまえるとしたら、それは何より、歴史のとらえ方にあると言えるだろう。歴史の法則といえば決定論的に聴こえるのでそうは呼ばない。ただ、歴史とは、でたらめな偶然の集積でもなければ、英雄の個人的意志が左右するものでもない。『共産党宣言』によれば、階級闘争こそが歴史を動かす要因なのである。

 そして、『共産党宣言』は何も持たない、無名の、虐げられた存在にこそ、その歴史への参画の資格があることを明確に指し示した。だから、これまで多くの若者が『共産党宣言』を掲げながら歴史の前面へと踊り出してきたのだ。

 そう考えると、『共産党宣言』の最大の意義とは、歴史への参画を呼号するアジテーションの熱さだというべきかもしれない。この書はこうしめくくられる。

「共産主義者は、自分の見解や意図を隠すことを恥とする。共産主義者は、かれらの目的が、これまでのいっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってしか達成され得ないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に慄くがいい。プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものは何もない。かれらには獲得すべき全世界がある。
全世界のプロレタリア、団結せよ!」

〈引用は『共産主義者宣言』太田出版より〉

(左巻き書店店主・赤井 歪)

●左巻き書店とは......ものすごい勢いで左に巻いている店主が、ぬるい戦後民主主義ではなく本物の左翼思想を読者に知らしめたいと本サイト・リテラの片隅に設けた幻の書店である。