『日本の大和言葉を美しく話す こころが通じる和の表現』(東邦出版)

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「最近の売れている本にはろくなものがない」と読みもせずに片付けるのではなく、ひとまずじっくり熟読してから物を言おうと心がけるこの新連載。第1回目は、関連書籍も多く刊行されている「大和言葉」本について考察していく。

 制作費を安く抑えたいクイズ番組では「正しい日本語はどれ?」という類いの問いが長年重宝されているが、書籍についても同様。「出版指標年報」の売り上げベスト10を見渡すだけでも、齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(2002年)、北原保雄『問題な日本語』(2005年)、出口宗和『読めそうで読めない間違いやすい漢字』(2009年)と、定期的に日本語ネタが並んでいる。

 意地悪な言い方をすれば、正しい日本語というのはこうして常に問われている以上、常に改善していかないものである、とも言える。三浦しをん『舟を編む』やNHKドキュメンタリー『ケンボー先生と山田先生 辞書に人生を捧げた二人の男』等で話題になった辞書編集者の地道な世界が教えてくれたのは、彼らが、言葉をいかに伝承するかと同時に、新たな用例をいかにして採集し、どこまで辞書に取り込むか、日々葛藤を繰り返していたこと。彼らの言葉への執着は、決して「最近の日本語」を問題視することを起点にしているわけではなかった。むしろ、未来志向で言葉に接しているように見えた。

「『的を得る』は誤用で、『的を射る』が正しい日本語である」は、「正しい日本語」雑学のテッパンネタだが、2013年に出た『三省堂国語辞典 第七版』では「的を得る」が採録されているという(ブログ「BIFFの亜空間要塞」参照)。「的を得る」は以前の同辞典には採録されていたが、版を改める段階で編纂者が「誤用である」と掲載を取り下げたことで、「間違いやすい日本語」としてしばしば取り上げられるようになった。しかし、最新の版ではこの用法が戻った、というわけ。決して世間のはやり廃りに流されたわけではないだろうが、少なくとも日本語とは、こうして時代に即した流動性を持つものなのだ。

 中国から取り入れた漢語でも外来語でもなく、「太古の昔に私たちの先祖が創り出した日本固有の言葉」である大和言葉。この言葉の美しさを生活に取り込み直そうと教え諭す高橋こうじ『日本の大和言葉を美しく話す』が評判を呼んでいる。著者は「造形能力に富む漢語や一見おしゃれな外来語に押されて、長く愛され、用いられてきた美しい大和言葉があまり使われない」と嘆きつつ、大和言葉を「日本人自身が育んできた知的で優雅な余韻を残す言葉づかい」であり「『心に染みる』特性があります」と規定する。

 本書を通読してみると、確かに大和言葉は知的で優雅だ。「まったくその通り」と言うよりも「いみじくも言い当てる」のほうが、「もう少し時間がかかります」よりも「しばしお待ちを」のほうが、「とてもおいしいです」よりも「得も言われぬおいしさです」のほうが、日本語の佇まいとして洗練されている。「あれこれすべての面で」という意味を持つ大和言葉「何くれとなく」を母音にすると「AIUEOAU」で、あたかも発声練習かのような響きになる、という指摘などには思わず唸る。

 著者は、日本古来の言葉である大和言葉から「この国の基を築いた古代の人々のことをもっと知り、精神を学びたい」とする。なぜならば、「いわゆるネットいじめや、議会のやじ、ヘイトスピーチなどで使われる粗暴な言葉。見聞きするたびに暗澹たる気分になります。身近なところから、少しずつでも美しい言葉を使う習慣を広げ、ご先祖様に対して誇れる国にしたい」から。この申し出に素直に頷くことはなかなか難しい。

 それらが放つ粗暴な言葉にはこちらも日々暗澹たる気分になっているが、その放言の数々に通底しているのは、多様性の排除。つまり、自分達のアイデンティティ以外を一切認めない態度にある。外からの文化を柔軟に取り込むことを過度に毛嫌いする働きかけに起因していることは明らか。言わずもがな、ヘイトスピーチは「この国の基」という主語を都合良く間借りして、それにそぐわないと決めつけた存在をいたずらに叩き続けている。

 昨年末から刊行が始まった池澤夏樹責任編集『日本文学全集』の第1回配本『古事記』の月報で、内田樹がこのように書いている。この全集の訳者の人選は「古典に対する理解の深さよりも、他者の生身との同期能力の高さ」にあるのではないか、と。他者と同期する態度と、大和言葉を愛でることで「誇れる国にしたい」とする態度は、古式ゆかしいものにアプローチしていく方向性として同質でありながら、スタンスをまったく異にしている。

 こちとら、「箸の持ち方なんて食えりゃどーだってイイじゃん」と、正しくない作法と日本語を繰り返してきてしまった人間だが、どれだけ粗暴な言葉を使おうとも、それを、いたずらにある一定の人たちを排他するためには使ってこなかった自負はある。日本語が乱れているという嘆きは、ずっと続いている。冒頭に挙げたように、日本語を見直す方向のベストセラーが定期的に生まれていることからも分かる。これまでの日本語本は単純に正しい日本語を希求するものばかりだったが、この「大和言葉」本は、しっかりとメンタルを染み込ませる作りになっているのが特徴的だ。この本を「右傾化だ!」と片付けるつもりは毛頭ないが、「日本を取り戻す」中枢の働きかけや、『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』を筆頭に数多く刊行されている日本礼讃本やテレビ番組が増えている世相と、この大和言葉ブームの目指すところがリンクしているのは、実に今っぽい。

 いかにもベタな見識で書くのが憚られるが、温故知新という言葉は、新しきを知るからこその「温故」である。あの頃の奥ゆかしい日本語を思い出すのは結構な働きかけだが、「ご先祖様に対して誇れる国にしたい」を一義に日本語を見つめ直すべきではないと思う。多様な文化や言語を吸収して揉み込んだからこそ育まれたのがこの日本。そして、粗雑と思われがちな新しい日本語からも、新たな風土や文化が芽を出すことがある。この姿勢こそ、先祖から伝わってきた日本らしさだと思うのだけれど。
(武田砂鉄)