■盛りあげよう!東京パラリンピック2020(19)

【大分中村病院理事長・中村太郎インタビューVol.4】

 大分中村病院で理事長を勤める一方、別府市にある『太陽の家』の理事長も勤めている中村太郎氏。太陽の家では、障がいのある人も働き、暮らし、一住民として生活ができるよう支援を行なっている。そうした活動を含め、2020年の東京パラリンピックや、それ以降を見据えた場合、今から取り組むべきことは何か。現在、中村氏が取り組んでいる活動についてうかがった。

伊藤数子(以下、伊藤):2020年に向けて何か起こそうと思っていることはありますか?

中村太郎(以下、中村):東京パラもそうですが、今「太陽の家」の関係で、10年ぐらい前からラオスでスポーツ振興とかをやっています。なぜラオスかと言うと、ベトナム戦争の爆弾で、脊椎損傷や切断になった方がすごく多い国なんですよね。

伊藤:具体的にはどんな活動をされているんですか?

中村:いきなりスポーツをやりましょうと言っても、車椅子が行きわたっていないので、まずはそこからでした。太陽の家には、車いすを作っている企業があるので、その人たちの協力を得て、ラオスの国立リハビリセンター内に車椅子工場を作ったんです。それで製造技術を指導して、結果、安く車椅子が作れるようになりました。

伊藤:そこからやっとスポーツに。

中村:はい。次はスポーツだということで、日本のサポートでラオスの首都に体育館を作り、今は車いすバスケのチームを作っているところです。まだ、1964年東京パラリンピック当時の日本のように、パラスポーツがないに等しい国がアジアとかアフリカにはたくさんあるでしょうから、そういうところから、日本に選手として来てもらえるようになったらいいなと思っています。

伊藤:まずは車いすバスケから始められたんですね。

中村:その話の流れで言えば、バスケにbjリーグってありますよね。大分にも『大分ヒートデビルズ』というチームがあって、去年から大分ヒートデビルズのホームゲームの前に、車いすバスケの試合を必ず行なうようにしてもらったんです。レフリーも付けてちゃんとした試合をしました。最終的にはリーグ戦まで行きたいと思っています。今はまだ始まったばかりですけど、年間十数試合はしているんです。そうすると、車いすバスケを今まで見たことのない人が、ヒートデビルズの試合を見に行ったついでに見るようになって、最近では車いすバスケのほうもお客さんが増えてきているんですよ。地元のマスコミも、福祉という扱いじゃなくて、大分ヒートデビルズの勝敗結果の下に車いすバスケのチーム名も一緒に掲載しています。ひとつのスポーツとして、結構負け方がひどい時は批判するとかそういう扱いです。

伊藤:素晴らしいですね。ちゃんとひとつの競技として扱っていて。

中村:今度その関係で、アジアドリームカップという、アジアの車いすバスケの大会を別府で7月に行なう準備をしていて、それに先ほどのラオスのチームも呼ぶつもりなんです。

伊藤:きっとラオス選手たちが日本に来たら、64年東京パラリンピックの時の日本人選手のように、自分たちとは違う生活を送っている選手に驚くでしょうね?

中村:そうでしょうね。1964年当時は、日本がちょうど戦後から高度成長期に入る直前ぐらいの頃で、初めて車いすの欧米人が来て、日本の障がい者とは違って、銀座に買い物に行ったり、どこかに飲みに行ったりしていました。おそらく当時の日本人にとって、すごく新鮮だったのではないかなと思います。

伊藤:そうですよね。日本人が当時驚いたことは、レガシーだと思います。そういうことを残していくというか、もっともっと伝えていかないと、と思います。

中村:そう思います。あの当時、日本で障がいのある人がバスケットをしているのって多分別府しかなくて、父は自分の患者さんに「明日からバスケットをやりなさい」という感じだったと思うんです。パラリンピックのときも、今まで全くスポーツもしたことがなかった患者さんに「今度パラリンピックがあるから出なさい」っていうような。

伊藤:私、その時のエピソードを何かで読んで素晴らしいなと思ったのが、裕先生が脊椎損傷の患者さんに、「君は下半身が動かないけれど、それ以外は何も悪いところがないからバスケをしなさい」とおっしゃったことです。何気ないかもしれませんが、「それ以外悪いところがないから」という、その言葉にものすごい深さを感じました。

中村:そうですね。グットマン氏の「失われたものを数えるな。残っているものを大切にしろ」の教えから父が学んだあとの話だと思います。

伊藤:そうですね。そういう考え方を、当時されていた方はなかなかいないですよね。太郎先生もこうして尽力されているのは、そういう環境の中で育ったというのも大きいですよね。

中村:ここ10年くらいになって、自分は変わった家庭に育ったんだなと気がつきました(笑)。医者の家に生まれて医者になるというのは結構多いんですけど、うちの場合は医者と言っても、障がい者の働く場を作ったり、パラスポーツに取り組むという部分で相当変わっていました。パラスポーツに関わっているドクターって、僕もずっとやっていますけど全然メンバーが変わらないんです。あまり増えてないんですよね。ただ、東京パラリンピックが決まって以降、年に1回国立リハビリテーションセンターでパラスポーツの専門医を育てるという講習会をやっていて、それはすごく参加者が増えたらしいです。

伊藤:そういった取り組みから、専門医が今後増えていくといいですね。

中村:パラリンピックをきっかけに、パラリンピックが終わった後も、こういう取り組みがずっと続いていくことを願っています。
(おわり)

【プロフィール】
■中村太郎(なかむら たろう)
1960年9月14日生まれ。大分県出身。
大分中村病院の理事長と、社会福祉法人「太陽の家」の理事長を務めている。父である中村裕(ゆたか)氏は、1964年の東京パラリンピック開催に尽力され、「パラリンピックの父」と呼ばれているが、その意思を受け継ぎ、障がい者の方が社会復帰を目指すサポートや、パラスポーツにも深く携わっている。2000年のシドニーパラリンピック、2004年のアテネパラリンピックではチームドクターを務めた。パラスポーツに関する著書としては、2002年「パラリンピックへの招待―挑戦するアスリートたち(岩波書店)」がある。

■伊藤数子(いとう かずこ)
新潟県出身。NPO法人STANDの代表理事。
2020年に向けて始動した「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」では顧問を務めている。2003年、電動車椅子サッカーのインターネット中継を企画、実施。それをきっかけにしてパラスポーツと深く関わるようになった。現在、パラスポーツの競技大会のインターネット中継はもちろん、パラスポーツの楽しみ方や、魅力を伝えるウェブサイト「挑戦者たち」でも編集長として自らの考えや、選手たちの思いを発信している。また、スポーツイベントや体験会を行なうなど、精力的に活動の場を広げ、2012年には「ようこそ、障害者スポーツへ」(廣済堂出版)」を出版した。

スポルティーバ●文 text by Sportiva