経済政策で人は死ぬか?

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経済政策で人は死ぬか?――公衆衛生学から見た不況対策(デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス著 草思社)

2014年の我が国の公的債務残高(地方分を含む)はGDP比2.3倍に達し、財政破綻が懸念されるギリシャ(1.8倍)を上回る先進国最悪の水準となっている。国際公約となっている2020年のプライマリーバランスの黒字化は容易ではなく、さらに、その先の超高齢社会の道行きを思うと、ため息が出る。

幸いにして、今は15年ぶりの株高などアベノミクスに支えられて、「差し迫った危機」に怯えるような切迫感はないが、冷静に足元を見つめると、油断すれば瞬く間に深刻な事態に陥る危うい状況であることに変わりはない。

こうした財政状況について、「一度、破綻してやり直した方がよい」といった無責任な意見や「社会保障給付を徹底的に削減すればよい」といった過激な意見も見られるが、リーマンショック以降、ギリシャをはじめ欧州諸国で次々と起こった社会の混乱、そして今もなお続く経済の低迷を見る限り、安易で硬直的な処方箋では通用しないことは明らかである。

本書は、大恐慌(1929年)以来、世界各地で発生してきた破局的経済危機、ソ連崩壊(1991年)、東アジア通貨危機(1997年)、そして記憶に新しいリーマンショック(2008年)を例に取り、その際に採られた経済政策が、人々の健康や生命にどういう影響を与えたのかを、平均寿命、死亡率、自殺率、感染症の発生状況など具体的な数値の裏付けをもって実証している。

読み進めるにつれ、経済政策次第で、国民の健康がいかに大きく左右されるかが示される。特に、不況時に採用される「緊縮財政」が、公衆衛生対策のみならず、住宅対策、労働政策などの縮小を通じて、低所得者や失業者などの死亡や疾病リスクを高めているとの指摘は重要だ。加えて、景気対策という視点からも逆効果だという。

金融・財政危機と言えば、真っ先に「緊縮財政」が思い浮かぶが、その選択がいかにリスクを伴うものであるかを再認識させられる本である。

不況時の国民の健康は、経済政策次第

一般的に「不況は健康に悪い」、すなわち、うつ病、自殺、アルコール依存、感染症等が増加すると考えられているが、現実は違う。1990年代初頭に経済恐慌に見舞われたスウェーデンでは自殺者は増えなかったし、東アジア通貨危機の際、低所得者への食料費補助やワクチン接種等を維持・強化したマレーシアでは、感染症の増加等の事態は避けられた。今回のリーマンショックにおいて、史上最悪の金融危機に直面したアイスランドでは死亡率は上昇しなかったし、ノルウェーやカナダではむしろ国民の健康状態が改善した。これらの国々では、不況下でもセーフティネット対策が削減されずにむしろ強化されたことが奏功したという。

しかし、ソ連崩壊時のロシア、東アジア通貨危機時のタイやインドネシア、そしてリーマンショック時のギリシャ、イタリア、スペインでは、死亡率、自殺率、うつ病や感染症の発症率等の健康指標が悪化した。これらの国々では、極端な緊縮財政を採り、セーフティネット予算が大幅に削減された。融資を受けるIMF(国際通貨基金)等から、債務返済や財政再建を急かされ、急激な民営化等の市場改革を迫られる中、結果として、大量の失業や住宅差し押さえといった事態を招き、それが国民の健康状態の悪化につながったという。

つまり、「健康にとって本当に危険なのは不況それ自体ではなく、無謀な緊縮政策」であり、問われているのは「不況に際して政府がとる政策」であるというのだ。

本書の言葉を借りれば、

「不況時においてもセーフティネットをしっかり維持することが、健康維持のみならず、人々の職場への復帰を助け、苦しいなかでも収入を維持する支えとなり、ひいては経済を押し上げる力になる」

未だ混迷が続くギリシャと、早々と金融危機を脱したアイスランド

【ギリシャの場合】

リーマンショックから7年が経つが、ギリシャは未だ立ち上がることができずにいる。

経済危機に際して、ギリシャはIMFから課された緊縮案(財政収支の改善、金融セクターの安定化、構造改革)をそのまま実施した。2009年段階でGDP比13%であった財政赤字を2014年までに3%以下に引き下げるというラディカルな目標だった。

この目標に沿って、医療費や公衆衛生対策費を大幅に減らした結果、医療機関受診率の低下、ウエストナイル熱やマラリアなど長らく見られなかった感染症の発生、HIV感染者の増加、そして、自殺率の上昇など健康指標は悪化してしまった。

こうした犠牲を払ったものの、現在のところ、ギリシャ経済は回復の兆しが見られない。不満を募らせたギリシャ国民は、今年1月の総選挙で、緊縮財政や国営企業の民営化撤回等を主張する急進左派のチプラス政権を選択した。混乱は続いており、出口はまだ見えない。

【アイスランドの場合】

これに対し、史上最悪と言われる金融危機に遭遇したアイスランドは、予想よりも早く危機を脱した。ギリシャ同様、IMFから巨額の歳出削減を求められたが(保健医療関連予算に至っては30%削減)、結局、国民投票を経て、拒否を貫いたのだ。

社会保障支出についても、既存制度の給付水準を維持するとともに、失業や自己破産を防止するため、新たに労働政策の強化や各種債務免除措置を講じ、GDP比21%(2007年)から25%(2009年)へと増額した。歴史的な不況が国民の健康や福祉に与える影響を監視するため「Welfare Watch」と呼ばれる監視委員会も設置した。

結果として、2012年のアイスランド経済は3%の伸びを達成し、失業率も欧州諸国では珍しく5%を切った。同年にはIMFへの返済もスタートし、国債の格付けも投資適格水準に引き上げられた。死亡率をはじめとする健康指標も悪化していない。むしろ、輸入品価格の高騰や所得の減少の影響で、飲酒と喫煙の頻度が減るなど健康の改善を示唆するデータも見られているという。

こうしたユニークなアイスランドの対応について、IMFも事後評価レポートで次のように評している。

「アイスランド政府は危機後も福祉国家としての根幹を守るという目標を掲げ、そのために福祉を堅持した。それをいかにして財政再建と両立させたかというと、まず歳出削減においては福祉を損なわないように配慮し、また歳入増加においては富裕層への増税を柱とした」
「すなわち、累進性の高い所得税を導入し、付加価値税の税率を引上げ、予算削減は効率化が見込める分野に絞ることによって、福祉予算を維持できるようにしたのである」

最も大事なことは、経済危機を引き起こさないこと

本書では、ギリシャとアイスランドの対照的な結果をはじめ、大恐慌以来の様々な事例が具体的なデータにより説明され、財政・金融危機の際に採られる経済政策の影響、とりわけ、緊縮財政の危険性と適切な「社会保護」政策の必要性が繰り返し語られている。

確かに不況期には、経済活動が停滞し、税収が減るとともに、経済危機の原因ともなった財政赤字を是正するため、緊縮財政を志向するのも自然な流れだが、国民生活の観点からすれば、不況時こそ、失業が増え、所得が減り、生活に困窮する者が増えるわけで、平時以上に政府の果たす役割が求められる。実際、今回のリーマンショックに際し、ギリシャに対し巨額の歳出削減を求めたドイツでも、自国内では、2009年に500億ユーロもの財政出動を行ったという。

経済危機に瀕した際の対応は難しい。国としての信用を守るため、債務(借金)を返さなければならないことは当然だが、国民の健康や生命を守ることは経済活動以上に重要な国家の使命である。

「どの社会でも、最も大事な資源はその構成員、つまり人間である。したがって健康への投資は、好況時においては賢い選択であり、不況時には緊急かつ不可欠な選択となる」

万一の時に備え、平時から、経済危機時の対応については、よくよく考えておく必要がある。しかし、何よりも大切なことは、国民の生活に大混乱を来たすような経済危機を引き起こさないことだ。それが最善の予防策である。

厚生労働省(課長級)JOJO