『「子猫殺し」を語る──生き物の生と死を幻想から現実へ』(双風舎)

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 千葉県の県立高校で発覚した教諭による子猫生き埋め問題。「授業に支障があり、自分の責任で処分しなければいけないという考えが先に立ってしまった」とこの教諭は説明したが、その「手口」は学校の敷地に目的を告げず生徒の手で穴を掘らせ、生まれたばかりの子猫5匹を生きたまま埋めるという陰惨なものだった。事態が発覚した後の3月23日、同校には抗議の電話が殺到、県教育委員会にも1日で100件近い苦情が寄せられた。生徒のなかにはショックを受けた者もいて、同校は「心のケアが必要」と表明した。何も知らずに穴を掘らされた生徒の心の傷は計り知れない。

 この一件で「あの騒動」を想起した人も多いかもしれない。2006年、直木賞作家の坂東眞砂子氏(故人)が「子猫殺し」なるエッセイを日本経済新聞に寄稿した。それは当時タヒチ在住だった坂東氏が飼っていた猫に生まれた子猫たちを、目が開かないうちに高さ2メートルの崖から放り投げていると明かしたもの。避妊手術の是非を考えた結果だという。文章はこう続く。

《人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。》
《家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。(中略)子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。》
《避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。》
《飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。(中略)
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない》

 掲載直後から抗議やネットへの書き込みが殺到。日経新聞には掲載1週間の間に1000通ものメールや電話が舞い込んだ。「不快」「理解できない」などの声が多数。

 ジャーナリストの江川紹子氏は「子猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている坂東さんの論理はおかしい。何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはずだ。猫は野生動物とは違う。人間とのかかわりの中で生きてきた猫と、どう幸せに寄り添っていくかをもっと考えるべきだ」(産経新聞06年8月25日付)と断じた。さらにタヒチを管轄するポリネシア政府は坂東氏の行為を動物虐待に当たるとして裁判所に告発する動きを見せた。小池百合子環境相(当時)も「去勢はかわいそうという観点と思うが、人間や地域との共生をさぐろうというなかで、殺すというのは究極の形」と話した。

 新聞各紙も噛みついた。《欧米ではペットを飼えなくなる時には、自己責任のもとに安楽死を選択する方法はある意味で当然ともいう。死ぬのは明らかなのに路傍に捨てたり、保健所に持ち込んで、とりあえずペットの死を心理的に回避する日本人との文化的隔たりは大きい》(中日新聞06年10月21日付)。毎日新聞は、物を書くことは《命を尊び、いつくしむ気持ち。そんな土台がなければ成り立ちえない》としたうえで《君は菜食主義者か、と突っ込む人がいるかもしれないがそれとこれとは話が全く違う。彼女が罪悪感から自分の行為を明らかにしたとしても、贖罪にはなりえない。殺すなら、飼うな。さびしさに一人耐え、自分の生をまっとうすればいい》(06年10月13日付)と手厳しい。

 一般読者からの投稿も相次いだ。とあるシングルマザーの主婦は経済的な事情で、飼っていた猫が生んだ3匹の子を面倒見切れず、段ボールに入れて夜中に動物管理センターの門に置いてきた来たと告白。息子と二人、泣きながら家路についたという。別の女性は小学生のころ、軒下に生まれた五匹の子猫を、親たちが橋の上から川に投げ捨てる場面に遭遇した。流れ去る子猫を泣きながら追いかけたが、いずれも流れに飲まれて再び浮かびあがることはなかった。以来「猫殺しの家」との負い目を背負うことになったと綴る。

 この騒動は海を越えた。映画「ベンジー」シリーズのジョー・キャンプ監督は激怒し、「信じられない。理解すらできない」「非人間的であり冷酷。どんな状況下であれ許されないこと」と憤慨した。坂東氏の言う「(避妊と)同じことだ」という論理にも「全く違うレベルの話で、殺人とイコール。彼女が米在住であれば、とっくに刑事罰を受けている」と断罪した。30年以上にわたって捨て犬の里親探しの活動を続けているキャンプ氏ゆえの怒りであろう。

 こうした批判に坂東氏は再び反論する。

《「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。》(毎日新聞06年9月22日付)

 だからと言って無力な子猫を殺していいのかという疑問は尽きないが、意外にもこの論には賛同者もいたのである。坂東氏は騒動が収まった後日、この問題を振り返った本を出版する。対談形式で構成され、登場するのは、音楽評論家の東琢磨氏、ノンフィクション作家の小林照幸氏、作家の佐藤優氏の三人。

 東氏が「子猫だとあれだけ盛りあがり、日本が見殺しにしている他国の人々だと盛りあがらないのが不思議で仕方がありません」と指摘すれば、小林氏は、坂東さんの行為を「飼い主が責任を持つという意味では、筋が通っている」と言う。佐藤氏は一連の騒動を「普段は思考を放棄している問題がいきなり(中略)世間に提起された。その結果、世間の人々は混乱し、坂東さんを感情的に、しかも過剰にたたくような言説が満ちあふれてしまった」と分析する。

 さらに坂東氏が亡くなった後、作家の東野圭吾氏は「実は子猫を殺していなかった坂東眞砂子さんのこと」と題した追悼文を発表した。帰国した坂東氏と話したところ、猫を放り投げた崖の下は草むらで、落ちても死なない状況だった。「殺した」というよりも「捨てた」というのが真相だという。とはいってもまだ目の開いていない、乳飲み子の子猫を野に放てばそれは死と直結する事態を意味する。何より坂東氏自身が「殺意」を告白している以上、弁解にはなるまい。

 当時の論争と、今回の生き埋め事件を直接関連付けるのは乱暴かもしれないが、高名な作家も、市井の小学校教師も「世話ができないので殺した」と行動を起こす短絡さには、何か日本における動物に対する歪んだ接し方が垣間見える。愛犬家、愛猫家がこれ見よがしに「わが子」を自慢する一方で「いらなくなったから捨てる」というアンビバレントな風潮が存在する。確かに、昔は子犬や子猫を捨てる、殺すということは当たり前のようにあったとも聞くが、21世紀の現代においてそれは通用しないだろう。そもそも同情できる、できないの議論以前に動物をむやみに殺すことは「1年以下の懲役、100万円以下の罰金」に処される「犯罪」なのだから。

 例えば他国の例をみれば、スイスでは動物を飼う際に、常識問題を問う試験に合格しないとその権利は得られない。欧州の多くではペットショップはあるものの、日本のように、犬や猫が狭いガラスケースに閉じ込められて売られる「生体販売」は行われていない。写真を展示するか、里親を募集するのが一般的で、日本の販売方法は「虐待」とみなされている。さらにイギリスでは生後2か月以内の犬の販売は禁止されている。ドイツでは犬の殺処分は行われていない。そもそも殺処分場自体がなく「不治の病」と獣医師が診断した場合のみ「安楽死」が選択される。いずれも動物たちの生きる権利を尊ぶ文化が伺える。

 ひるがえって日本では年間28570頭の犬と99671匹の猫が殺処分されている。このうち、負傷によりやむなく処分された犬は775頭、猫は9509匹だった(平成25年環境省調べ)。つまりほとんどは健康な状態で狭いガス室に送り込まれたことになる。

 家庭の事情で飼育が困難になる事態だけではなく、ペットショップやブリーダーが売れ残ったペットを殺処分に持ち込む事例もある。09年には兵庫県のブリーダーが年間50頭の犬を持ち込んでいた例が明らかになったが、驚くことにこれは違法ではないのだ。

 殺処分数は年々減少している。それでも、もう少しどうにかならないのだろうか。2020年、多くの国や地域から人々が東京にやってくる。彼らがこの事実を知ったら、とても「COOL JAPAN」とは言わないだろう。
(相模弘希)