地域の自然環境を活かした芸術祭が、日本各地で開催されています。瀬戸内に浮かぶ複数の島々で島を巡りながら、現代アートに触れることができる「瀬戸内国際芸術祭」では、2013年に粟島で制作された『漂流郵便局』が、2年経った今なお反響を呼んでいます。

現在でも、月平均200通が届くという『漂流郵便局』とはどのような作品なのか、アーティストの久保田沙耶さんにお話を伺いました。

    漂流物の多い島、使われていない郵便局

――『漂流郵便局』とは、どのような作品なのでしょうか?

久保田沙耶さん(以下、久保田):1964年に建てられ、1991年の移設まで島の人たちに利用されていた旧粟島郵便局の建物を『漂流郵便局』(※)という名前で蘇らせ、届け先のいない手紙やハガキを局内にある漂流私書箱にお預かりするというものです。
(※)日本郵便株式会社が運営する郵便局とは無関係

――郵便物を間違いなく届けることが義務の「郵便局」と、行き着く先が定まらない「漂流」という相反する概念の組み合わせが面白いですね。

久保田: 2012年7月に制作の下見に粟島に訪れたのですが、印象的だったのが島に流れ着いた漂流物の多さです。粟島は潮流の関係で漂流物が堆積しやすく、さらに粟島自体も流れてきた砂の堆積でできたそうです。

島を歩いている時にたまたま旧粟島郵便局を見つけました。当時は倉庫として使われていたのですが、鍵が掛かっていなかったので勝手に入ってしまいまして。窓口の受け付けガラスに自分の姿が映ったとき、わたしも漂流物のようにこの島に流れ着いてしまったようだなと感じました。

かつて粟島には日本最古の海員学校があり、その海員学校を作った中野寅三郎さんという方が粟島の初めての郵便局を作った方でもあるのです。船乗りとしてアラスカやインドに長く航海しているお父さんたちと電報を交わしたりするため、かつての郵便局は大変賑わっていたそうです。

そうした島の背景や実体験から、社会的な運搬といえる郵便、自然の運搬によって集まってきた漂流物、そして何かの力で運ばれてきた私たちという3つが重なる場所として、旧粟島郵便局を『漂流郵便局』という美術作品に仕上げられないかと考えたのが始まりです。

    20代の現代美術家と80歳の郵便局長

――芸術祭が終わってから約1年半経つ現在も、『漂流郵便局』として開局されていますが、いまでも届け先のいない手紙やハガキが多く集まっているそうですね。実際にかつて粟島郵便局長だった中田勝久さんが『漂流郵便局』の局長として管理されているとか。

久保田:中田さんとの出会いがなければ、間違いなく『漂流郵便局』はこのような形になりませんでした。粟島に行く前の作品の準備期間に、17年間粟島郵便局長だった中田さんの存在を知り、2013年6月に芸術家村に入村して真っ先にお会いしました。そこから郵便や島の歴史などを教えてもらいながら、その中でだんだんと作品のシステムを思いつき、最終的には中田さんに再び漂流郵便局の局長をお願いしました。中田さんがはじめて制服を着て局舎に立ったとき、場の雰囲気が大きく変わったのを今でも鮮明に覚えています。

――20代のアーティストである久保田さんと、45年郵便職員一筋で勤め上げた80歳の中田さんのコンビになるわけですが、協働は上手くいきましたか?

久保田:私は現代美術家の立場として、作品を鑑賞する時に、わからないものをわからないままに受け取って、ゆっくり自分なりに考えて頂く時間を持ってもらいたいという気持ちがありました。なので、作品に対してなるべく細かい説明を避けていたのです。

ところが郵便局で長く勤められていた中田さんにとっては、お客様である鑑賞者には、きちんと理解してもらうことが一番大切なことであり、細やかに説明をすることは彼にとって重要なことでした。芸術祭の期間中は、そんな価値観の違いからぶつかり合うこともありました。

私は最初、『漂流郵便局』の作者として作品を守り、コントロールしようとしていたのですが、この1年半の体験の中で、それが作品自体をどんどん不自然なものにしてしまっていることに気がつきました。自然に作品が存在していくためには、流れに身を任せるべき時もあると考えるようになりました。タイトルも「漂流」ですしね。

今年2月に開催した「書籍漂流郵便局出版記念開局」の閉局後、中田局長とふたりで海辺で散歩をしていたとき、「漂流郵便局もわたしたちふたりも変わったね」という話になりました。ささやかな変化を共有できることを、今はとても幸せに思います。

    亡くなった息子に手紙を送り続ける男性

――漂流郵便局に届いた手紙やハガキで印象的なものはありましたか?

久保田:みなさま、いろいろな宛先に出されており、ときどき驚くことがあります。「めがね」宛であったり、「あの日の思い出」宛であったり、「宇宙人」宛だったり。自分が思いもよらない宛先に出されているものを見つけると、思わず自分も「出し忘れてる相手がいるのではないか」と思ってしまいますね。

また、同じ宛先に対して何度も出されている方も大変印象深かったです。亡くなった息子さんに宛てて、これまでに70通くらいお送りいただいている方がいます。彼は、時間をかけて何度も問いかけ続けることで、返事はなくとも、問いかけに温度が出てくるのだとおっしゃっていました。

    返事がない手紙を送る意味

――届かない手紙やハガキを出すというのは、どういう意味があると思われますか?

久保田:手紙やハガキを買って、肉筆で文章を書き、切手を貼り、投函するという一連の流れが、なにか無意識のうちに儀式的な役割を果たしているのではないかと思っています。大袈裟に言えば結婚式やお葬式のようなものなのかもしれません。書くだけでなく、ポストに投函して実際に漂流郵便局に届くという体験が気持ちに何かしら変化をもたらすのではないでしょうか。

私も小さい頃から花や動物の絵を描き続けてきて、返事がないものに対してなぜこんなに絵を描きたくなるんだろうと不思議に思ったことがあるんです。人間はただの星の配置から星座を生みだしたり、壁画を描いたり、返事のないものに対しても、コミュニケーションをしたいという想いが根っこにはあるんじゃないかなと。

郵便物も同じで、手紙やハガキというキャンバスに自分の気持ちを凝縮して書くという作業は、じつは同じような想いをもとにした、クリエイティブな作業なんじゃないかなと思うんですね。一通を投函するまでに込められている時間というのが、すごく尊いものなのだと感じます。

    『漂流郵便局』が島の日常になる

――漂流郵便局が誕生してから1年半経って、作品の存在は島の人たちや訪れる人たちにとってどのように変化しているのでしょうか?

久保田
:神社や教会、タイムカプセルのような一面も出てきていると思っています。まるで神父さんに会いにくるように、中田さんに会いに来る方も多いようです。

私は昔、教会に滞在して作品を制作していたことがあるのですが、教会は、誰かが絵をかけたり、掃除したり、花をいけたりという小さい心配りの集合なんですね。

じつは今、同じようなことが郵便局でも起こっていて、島民の方が漂流物を持ってきて下さったりお花を持ってきて下さったり、日常の一部のような存在になってきているように思います。時間とともに変化していく漂流郵便局を中田さんと私でこれからも守っていきたいと思っています。

(末吉陽子)