10代の錦織圭と対戦経験や練習経験を持つ選手たちが、当時の彼のプレイを振り返り、一様に口にする言葉がある。

「フォアハンドの攻撃はすごいが、バックハンドはそれほど印象に残っていない」

 現在、日本人3番手の伊藤竜馬(世界ランキング103位)は17歳の錦織と初めて練習した時、「フォアのスピン回転が鋭く、どんどん攻めてくる。でもバックは、それほどでもなかった」と感じたと言い、満面の笑みを浮かべて、「今は、バックがヤバいんですけれどね」と付け加えた。

 ほぼ同じ感想を述べたのは、12歳のころから錦織を知る1歳年長のアレクサンドル・ドルゴポロフ(ウクライナ/最高13位・現在65位)だ。10代半ばのころに対戦した日の印象を、ドルゴポロフは「圭のプレイスタイルは今と変わらないが、バックは今のほうがはるかに良い」と言い、さらに興味深い分析を付け加えた。「以前の圭は走り回り、どんなボールも可能な限りフォアサイドに回りこんで打とうとしていた」。

 25歳を迎えて世界5位になった現在、錦織の武器を「バックハンド」だと見るライバルや識者は多い。例えば昨年の全米オープン開幕前、『ニューヨークタイムズ』誌に掲載された「識者たちが選ぶショット別ベストプレイヤー」では、「ベスト・ダブルバックハンド」部門で錦織は4位に食い込んだ。ちなみに1位はノバク・ジョコビッチ(セルビア/世界1位)で、以下アンディ・マリー(イギリス/世界4位)、トマシュ・ベルティヒ(チェコ/世界9位)と続いており、錦織を「最強バックハンド」に推した識者の中には、錦織の元コーチであるブラッド・ギルバートも含まれる。

 また、元世界1位でテレビコメンテーターやデビスカップの米国キャプテンを歴任しているジム・クーリエも、「これまで最強バックハンドの持ち主はジョコビッチで、2位がマリー、そしてナダルと錦織が3位タイだと思っていた。だが、錦織をもっと上にしなくてはいけない」と述べていた。

 錦織自身は「最も自信があるのはフォア」だと常々公言しているが、世界中の選手を畏怖(いふ)させるバックの武器を得たことは、実は"省エネテニス"にもつながっている。

 昨年の全米オープンのデータによると、錦織が1ポイント獲得に要した走行距離は52.1フィート(約15.9メートル)。これは、ベスト8に進出した選手の中で最も短い距離であった。この数字の背景にあるのは、錦織がそれだけラリー戦を支配していることと、ベースラインに近い位置で打つため左右の移動距離が少ないこと。そして、前述のドルゴポロフの分析を加えるなら、バックサイドのボールにも最短距離で走り込み、バックハンドからウイナー級の強打を打てていることが上げられるだろう。

 通常、多くの選手はフォアを得手とするため、バックサイドのボールも可能な限り回りこんでフォアで打とうとする。しかし、それでは走行距離が増え、またフォアサイドに大きなオープンスペースを作るため、返球された際のリスクも増す。その点、錦織はバックからも攻守一体となったプレイができるようになったため、全コートを効率よくカバーでき、それが走行距離の短縮につながっているのだろう。

 前置きが長くなったが、3月28日に行なわれたマイアミオープン2回戦。錦織はロシアのベテラン、ミハエル・ユーズニー(世界64位)と対戦した。ユーズニーは、片手バックハンドでスライスと強打を使い分ける業(わざ)に長ける選手。過去の対戦時(2013年)は、コートが芝だったこともあり、錦織はこのバックの緩急に悩まされてストレートで敗れた。

 その初対戦時から、約2年。強風の中で行なわれたマイアミでの再戦では、錦織は試合開始直後から「思ったほど、相手は打ってこないな」と感じていた。風の影響もあり、両者とも攻めあぐねる状況ではあるものの、この日のユーズニーはバックでリスクを犯して攻めてこない。錦織は、そこを勝利に連なる道と見た。

「今日は、自分のバックに伸びがあった」

 その感触が確信に変わったのは、第1セットの3ゲーム目。様子を探るようなバックのクロスの打ち合いから、錦織がギアを変えるかのようにタイミングとスイングスピードを一段上げると、黄色いボールは強風を切り裂き、相手のラケットに触れることなくコートを斜めに貫いた。その球筋の美しさに、客席から「オオッ!!」と感嘆の声が漏れる。

 この一撃で勢いを得た錦織は、第3ゲームを早々にブレーク。第7ゲームでも錦織が強打のバックを鋭角に2本連続で叩き込むと、ユーズニーは耐え切れずにネットにボールを引っ掛けた。このゲームも、バックハンドを軸に攻めた錦織がブレーク。第1セットを、わずか30分で奪い取った。

 第2セットは、立ち上がりからユーズニーが元世界8位の意地とプライドをむき出しにして、勢いに乗る世界5位に立ち向かう。特に最初のゲームでは、ポイント奪取のたびに咆哮をあげ、自らを鼓舞し続けた。しかし、その闘志ですら、錦織のバックハンドは粉砕する。第1ゲーム4本目となるブレークポイントで錦織がバックのリターンを叩き込むと、ユーズニーの返球は力なくネットを叩く。さらに続く第2ゲーム、錦織が4回のデュースの末に奪ったとき、試合は実質的に決まったも同然だった。

 だが、そのように試合の流れが決しても、まったく慢心がないのが、さらに先を見据える第4シードの真骨頂だ。

「風もあるので、リスクは犯しにくい状況だった。ラリーを長くし、確実に決められるチャンスを待った」

 ミスをせず、確実にポイントを決めていくことこそが、結果として試合時間の短縮となり、同時に自分の調子を上げることにもつながる。その事実が端的に示されたのが、ゲームカウント5-1と大きくリードして向かえた相手のサービスゲーム。錦織は相手の強打をしのぎ、自分の形になるまでつなぎのショットも混ぜつつ、最後はバックの強打で相手のミスを誘った。このポイントで両者が交わしたショットは、17本。これが、この日の最長ラリーである。

 さらには同じゲームの相手のアドバンテージでも、14本のラリーをつなぎ、最後は錦織がバックでポイントを奪取。結果、6回のデュースの末にゲームをブレークした錦織が6-2、6-1で、試合時間1時間8分のスピード勝利を掴み取った。

 試合後の錦織は、会心の勝利を喜ぶというより、「相手はミスが多かった」「相手は良いプレイではなかったと思う」と、どこか拍子抜けしたような表情を見せていた。

 確かに、それは事実だろう。だが、強風という難しい環境の中で発揮した、錦織の「考えながら」のテニスが相手の力を封じ込めたのも、また事実だ。

「相手のバックを攻める」プランを完遂した強者の勝利。それは、少年の日から続く成長の旅路であり、ここから先に続いていく、頂上への足がかりである。

内田暁●構成 text by Uchida Akatsuki