なぜサラリーマンは「残業代ゼロ」で過労死するのか?

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■サラリーマンにデメリットだけの法案

私事で恐縮であるが、このほど『2016年残業代がゼロになる』(光文社)という本を緊急出版した。安倍政権が導入しようとしている「残業代ゼロ制度」があまりにも経営者に有利で、働くサラリーマンにとってはメリットどころか、デメリットしかもたらさない制度であるからだ。

第1次安倍政権下(2007年)で浮上した日本版ホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間の適用除外制度、以下エグゼンプション)は世論の反発で廃案になった。当時は大新聞のほとんどが法案を批判し、反対世論形成のリード役を果たした。だが、今回は朝日、毎日、東京の3紙だけが反対色を鮮明に打ち出しているが、他紙は賛成もしくは中立を決め込んでいる。そのため世論は今ひとつ盛り上がりにかけ、エグゼンプション自体に関心がない人が多い(労働組合の連合調査では内容を知らない人が85%)。

このままではサラリーマンに不利益しかもたらさない法案が、国会で成立してしまうことに大いなる危惧を覚えたのが執筆の動機だ。

そのデメリットは残業代が出なくなるだけではない。今まで以上に長時間労働が助長され、労働者の健康被害が拡大する恐れがあるのだ。これまでは労働者を保護するために25%以上の割増賃金を支払うというペナルティを経営者に課していた。それがなくなれば、経営者は残業代を気にせずに働かせることができる。しかし安倍首相や経済界は、新制度は労働者本人が自由に働く時間が決めることができるので労働時間が減少し、ワークライフバランス(仕事と生活の調和)に資すると主張してきた。

果たしてそうなるだろうか。労働経済学者の間では、割増賃金の支払いをやめると理論的かつ実証研究でも労働時間が長くなる傾向にあることは常識とさえいってよい。今回の法案でも一応、歯止め措置が規定されている。(1)希望しない人には制度を適用しない、(2)健康確保措置――の2つだ。(1)については日本の企業で本当に機能するのか疑問だ。とくに大企業は一般の労働市場と分断された内部労働市場が出来上がっている。労働時間の決定に一社員の意向が反映されるとは思えない。

上司から「あなたは来期から新制度の対象者になりますが、いいですね」と言われて、「嫌です」と拒否できる人がどのくらいいるかということだ。年収要件の1075万円について、厚労省の担当者は「使用者との間で交渉力を持つ水準」と述べている。これは、「私をエグゼンプションの対象にするなら、会社を辞めますよ」と言うと、「いや君に辞めてもらっては困る」と引き留められるぐらいの人を指す。まず、これに合致する人がどれだけいるというのか。

■「残業代ゼロ」で実質400万円減少も!

もう1つの「健康確保措置」ではエグゼンプションを導入する企業は以下のいずれかの措置を選択することになっている。

(1)24時間について継続した一定時間以上の休息時間を与えるものとする(インターバル規制)
(2)健康管理時間が1カ月または3カ月について間の一定の時間を超えないこととする
(3)4週間を通じ4日以上かつ1年間を通じ104日の休日を与える

(1)は仕事が終わってから翌日の始業までの休息時間を設定するものだ。EUではインターバル規制と呼ばれ、11時間の休息時間を付与している。(2)は1カ月ないしは3カ月の労働時間の上限を設定する。量的上限規制と呼ばれている。

休息時間と量的上限の労働時間は省令で規定することになっているので今のところは何とも言えないが、おそらく多くの企業は(3)を選ぶだろう。なぜなら年間休日総数の1企業平均は105.8日、労働者1人平均は112.9日(2013年、厚労省調査)となっている。

しかも休日以外の日についてはインターバル規制や量的上限規制がないために、経営者は長時間労働をさせることが可能になる。そうなれば健康確保措置は絵に描いた餅になる。

その結果、過労死水準と言われる月に100時間の残業(労働時間規制が廃止されるので残業の概念がなくなる)をする人も珍しくなくなるかもしれない。その人は健康被害を受けるだけでなく、実質的に報酬も削減される。

年収要件の1075万円の場合、単純化してボーナスが5カ月分とすれば、月給は64万円弱だ。それを法定労働時間の週40時間、月に換算した160時間で割ると、1時間当たりの賃金は4000円になる。その人がエグゼンプション下で残業代が出なくなり、月100時間の時間外労働をした場合、時給は2460円にまで下がってしまうことになる。この時給をベースにして残業が出ない場合の月給を計算すると約40万円、ボーナスを含めた年収は約680万円になる。つまり、エグゼンプションの対象者になることによって、実質賃金は400万円も減ってしまうということだ。

■労働時間が長くなる理由とは

エグゼンプションの対象者になった人は、労働時間が短くなることはなく、間違いなく労働時間は長くなるだろう。傍証もある。現行法制では導入企業は極めて少ないが「裁量労働制」という制度がある。簡単に説明すれば、労使で話し合って1日の労働時間を9時間に設定すれば、8時間を超える1時間分の手当は出ても、9時間を超えて働いても残業代が出ない仕組みだ。

本来、この裁量労働制の適用者は、自分の裁量で自由に仕事をやることができ、「出勤・退社時間の自由」が原則だ。だが、現実はそうなっていない。

独立行政法人労働政策研究・研修機構が、厚労省の要請で調査した「裁量労働制等の労働時間制度に関する調査結果(労働者調査結果)2014年6月」がある。

調査は「専門業務型裁量性」(専門型)、「企画業務型裁量性」(企画型)、「通常の労働時間制」の3つに分けて、それぞれ1カ月の実労働時間を調べている。それによると、労働時間150時間以上200時間未満が通常の労働時間制の社員では61.7%、専門の社員は42.1%、企画型の社員は49.8%となっていた。ところが、200時間以上250時間未満になると、通常の社員は26.5%であるのに対し、専門型が40.9%、企画型が38.6%となっている。つまり、柔軟な働き方ができるはずの裁量労働制の社員は通常の社員以上に長時間働いているのだ。

しかもこの調査では49.0%の人が「一律の出退勤時刻がある」と答え、40%超の人が遅刻した場合は「上司に口頭で注意される」と答えている(労働政策研究・研修機構2014年6月調査)。

出退勤時間を自由に決められるはずなのに、実態を見れば自由などない人が半分も存在する。エグゼンプションが導入されれば、ほぼ同じような結果になることは間違いないだろう。

(ジャーナリスト 溝上憲文=文)