『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』

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 地下鉄サリン事件から20年という節目の3月20日、オウム真理教に関する一冊の本が出版された。『止まった時計』(講談社)。著者は松本麗華──といっても、ほとんどの人が誰のことなのかすぐには分からないだろう。だがホーリーネーム・アーチャリーと聞けばすぐに分かるはずだ。そう、オウム真理教教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の三女である。

 事件当時、松本家には他に姉2人、妹、弟2人がいたが、その中でアーチャリーはオウムの正大師という高い地位につき、オウムの後継者と目されてきた。その動向は当局から危険視され、世間からも大きな注目を集めていた。

 その後、アーチャリーは時折、一部の雑誌インタビューに応じたり、裁判の差異について会見を行ったことはあったが、表舞台からは姿を消していた。その彼女が実名を出し、表紙には顔写真まで掲載した自伝を出版。父親・松本智津夫の実像、サマナ(信者)たちとの交流、一連のオウム事件など、この20年間を赤裸々に語ったのである。

 そもそも、アーチャーリーは今、オウムに対してどういう立場なのか。一部では今も彼女がオウムの事実上の後継者であり、後継団体の「アレフ」にも大きな影響力を持っているとされているが(2014年12月にも公安調査庁はアレフ役員だと認定している)、本書ではそれを強く否定している。2000年に「アレフ」が設立された際、アーチャリーはこう決意したという。

「父が作ったオウム真理教を故郷のように思っていたわたしは、アレフという団体にその思いを託すことができなくなりました。(略)父の時代とのギャップを感じ、故郷は失われたのだと悟りました。元々教団内で限界を感じていたことも重なり、アレフに入会しないことを決めました。また弟たちはアレフの教祖にはなりませんでした」

 だが、その後も上祐史浩(アレフ元代表で、現在はその後さらに分派したひかりの輪代表)、そして母親の知子に教団運営に関して何度も名前を使われ、利用された。

「上祐さんがわたしの名前を使い、『アーチャリーが賛成している』といって教団運営をしているという話を聞きました(略)。上祐さんだけでなく、教団全体が『松本家は対外的な問題のために関わらないふりをしているだけで、本当は教団の構成員』だと思っていた節があります。しかし、わたしたちは実際に教団を離れており、アレフに入会もせず、支援も受けず、社会の中で自分の意志を持って生きていました」
「母は上祐さんが教団の運営から外れてからずっと、アレフでわたしの名前を使い、自分の指示を通そうとしていました」

 その後、トラブルも重なり、アレフは今、逆にアーチャリーを敵対視し「悪魔」とさえ呼ぶようになっているという。

 たしかに、この手記を読むまでもなく、アーチャリーがアレフとともにオウム復活を狙っているという説は、公安のでっち上げの可能性が高い。しかし一方で、本書からは、アーチャリーが今も父・松本智津夫に対して思慕の念を持ち続けていることがはっきりとうかがえる。

 1983年4月に松本智津夫の三女として生まれたアーチャリーは、幼少期から父を慕い、父が人生そのものだったと語っている。智津夫は世田谷の道場から帰ることがほとんどなかったが、父親が時折帰るたびに、姉妹は歓喜したという。

「次姉は父の帰宅を『太陽のない世界に、太陽が来た』と表現したことがあります」

 アーチャリーだけでなく姉妹にとって"太陽"だった父の存在。それは年を経るごとに増していく。アーチャリーが5歳の時、一家は富士宮にできた総本部道場に移転した。

「わたしは毎日父にくっついて歩き、眠くなると父の部屋にあるベッドに潜り込んで眠り、毎日のようにおねしょをしました。わたしは夜尿症だったようです。しかし父が、おねしょについて小言を言ったことはありません。わたしが父より先に寝ていると、わたしを起こさないようとする気遣いか、父は自分の腕を枕にして床の上に丸まって寝ることもありました」
「教団内では、父はすべてを見通す力がある神のような存在で、父さえいればすべてがうまくいくという雰囲気がありました。激しいバッシングにさらされても、尊師さえいたら大丈夫。たとえそれが死につながったとしても、尊師と一緒に転生できるなら大丈夫という、今生だけでなく来世を見通した安心感があったのではないでしょうか」

 アーチャリーにとってその存在の大きさがわかるエピソードだが、もちろんこれは「教祖・麻原彰晃」の権力が大きくなっていったことが影響しているはずだ。オウム信者たちに絶対的存在として扱われ、それを見た娘がさらに尊敬の念を抱いていく──。アーチャリーは次第に父親を"尊師"と呼ぶようになり、さらに父に依存していった。

「父との関係が壊れることが、わたしにとっては世界が崩壊するに等しく、父に見捨てられるという不安はどうしても拭い去れませんでした。(その背景には)常に不安定な人間関係があったと思います。具体的には、母との関係で愛情を感じられないこと、わたしたち子どもの世話をしてくれる人がたびたび替わること、やめていくサマナも多いこと、などです」

「父親から見捨てられる」──幼い子どもにまでそんな恐怖を抱かせる智津夫との関係は、まさにオウム信者たちへの"洗脳"を想起させる。アーチャリーが見たのは教祖であり絶対的存在の父親だった。

 だが、一方で、93年頃、智津夫が本気でアメリカから毒ガス攻撃を受けていると信じるようになったことについては、明らかに幻覚、幻聴だったとアーチャリーは記している。

「今から振り返ると統合失調症などの精神疾患によるものと見ることができるのではないか、とも思います」

 こういうことをいうのは、父親を刑から逃れさせようとしているからではないか、という疑念も生じるが、実は本書の中で、アーチャリーは、父親が事件の首謀者であるとする見方にはっきりと疑問を呈していたのだ

 そもそも、95年にサリン事件が勃発し、智津夫が凶悪なテロ事件の首謀者として逮捕された際も、アーチャリーは父親を信じていたという。

「事件自体が起こったことについては受け入れていました。しかしその事実と、それをオウムがおこなったのか、父が首謀(指示)したのかは、また別のことでした」

 そして、その思いは現在も変わっていないようだ。アーチャリーは事件の構図についてこう持論を述べている。

「『尊師によく思われたい。尊師に褒められたい――』
 これが、これらの大きな事件の構図において重要なキーワードだ、ということです。『尊師』を都合良く使った人も、父の言葉の文脈を理解できなかった人も、『尊師によく思われたい』という思いがあることでは共通していました」

 アーチャリーが見たサマナたちは必死で尊師の関心を自分に向けようとしていた。そして危機感を煽るような情報を伝えたり、自分に都合のいいように解釈して他のサマナたちに伝えた。事件はそんな背景で起こったのではと指摘するのだ。「父親がすべてを指揮したわけではないのではないか」と。

「わたしは事件に関し、父が何をしたのかを知りません。でも、当時を思い返し、今まで自分が経験してきたことを考えると、父がすべての主犯であり、すべての指示をしていたとはどうしても思えないのです。当時父を『独占』していた村井さんや井上さん(注・嘉浩 元オウム諜報省長官 死刑囚)たちが、父に真実を報告し、また父の指示をそのまま伝えていたとは信じられないところがあるからです」

 こうした見方は、サリン事件の被害者や麻原彰晃の命ぜられるままに犯罪に手を染めていった信者にとっては、身勝手としか思えないものだろう。だが、アーチャリーは反発を受けることも覚悟の上で、父親を擁護する。

「わたしは父について多くの批判があることは、身にしみています。
 それでもわたしは、父が事件に関与したのかについて、今でも自分の中で保留し続けています。父が事件には関わっていないと信じているわけでもありません。父は事件に関与したのかもしれないし、してないのかもしれない。
 父が弟子たちと主張が食い違ったまま病気になり、何も語ることはできなくなりました。一方の当事者である父がきちんと裁判を受けられず、いまだに何も語ることができない以上、わたしは今後も判断を保留し続けるでしょう」

 この決意のウラには父親への愛情だけでなく、母親である松本知子への不審、憎悪とも思える感情が存在したという。

「もし母が、妻として母親として、病気の父の裁判を責任をもって支えてくれていたなら、わたしはまた別の考えを持っていたかもしれません。でも母は何もしませんでした。父を守れる者が子どもしかいないなら、わたしだけでも父を信じよう。父の言葉を聞くことなく、父を断罪することは絶対にしない。世界中が敵になっても、わたしだけは父の味方でいたい」

 11歳で国家転覆を狙った日本最悪の犯罪者、テロリストの娘となったアーチャリー。彼女は本書の出版を機に今後もテレビやネットなどに出演予定だというが、社会はこれをどう受け止めていくのだろうか。
(伊勢崎馨)