パルマのウリビエリ監督が、そこで採用した布陣にも、イタリアの傾向は反映されていた。3−4−1−2。強者パルマは、その第1戦をホーム戦であるにもかかわらず、守備的サッカーを代表する布陣で戦った。

 そこでリールがどうでるか。前からいけるか。3−4−1−2の弱点を突くような戦いができれば、両者の差はあってないようなもの。競った試合になる。逆転もある。攻撃的サッカー対守備的サッカーが相まみえれば前者有利という、当時の欧州で示されていた例に従えば、そうした予想にも必然性があった。

 監督ハリルホジッチの名前を確認したのは、その時だった。20年前の姿も頭をかすめた。大丈夫? との思いは、しかし、試合が始まるや、たちどころに消えた。とはいえ、試合前に配布されたプレスリリースには、ハリルホジッチがその時、飛ぶ鳥の勢いにあることが記されていた。前々シーズン、リールをフランスリーグ1部に昇格させた彼は、前シーズンはそこでいきなり2位になり、チャンピオンズリーグ予備予選への出場権を獲得したのだった。

 3−4−1−2への対処策は完璧だった。あるレベルに達した監督であることをこの目で確認した瞬間でもあった。リールは、4−1−4−1あるいは4−1−3−1−1と言うべき布陣から、パルマの布陣をすっぽりと包囲。定石通り、両サイドを突きながら攻めると、パルマは守勢一方に陥った。強者と弱者の関係は、これで一気にひっくり返った。結果は0−2。パルマは最悪の試合をした。エンニオ・タルディーニには試合後「監督出てこい」の罵声が響き渡ったものだ。 

 パルマはリールホームの第2戦を1−0としたが、通算スコア1−2でチャンピオンズリーグ出場を逃す失態を演じた。

 2トップ下で出場した中田英に活躍の機会はなし。僕的には、ハリルホジッチが凄かったと言うより、ウリビエリがダメすぎたと言いたくなる試合だった。いくら良い選手を揃えても、これではその良さは発揮されない。まさにこの試合は、守備的サッカーの非効率性が、白日の下に晒された一戦だった。

 攻撃的サッカーの浸透を加速させた試合。守備的サッカーの衰退に拍車を掛けた試合。時代の流れを決定づける役割を果たした試合。と言える。

 攻撃的サッカー対守備的サッカーは、言ってみれば、世界の近代史に例えれば、東西の冷戦構造に似ている。日本史に照らせば、関ヶ原の戦い。そう言いたくなるほど、サッカー史において重要な位置を占める。

 ハリルホジッチは、さしずめ関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献した一武将といったところか。

 だが、当時の日本のサッカー界は、そうした欧州の情勢についてまったくもって鈍感だった。焦点は、あくまでも日本初のチャンピオンズリーガー誕生なるか。欧州サッカーを眺める視点も、もっぱら個人の活躍に向けられていた。サッカーゲームの中身について、欧州で起きているサッカーの変化については一切と言っていいほど、関心を示せずにいた。その結果、欧州の流れとは真逆なサッカー方向に進むことになった。3−4−1−2。それは、時の代表監督トルシエが採用した布陣に象徴された。Jリーグの各クラブも、これに倣うサッカーだった。

 ハリルホジッチのような監督に、日本代表の監督を任せてみたい。何を隠そう、当時の僕のノートにはそう記されている。

 日本のサッカー界は、これまで右肩上がりを示してきたと言われるが、「あの頃」ハリルホジッチのような監督に代表監督を任せていれば、もっと急な右肩上がりを示せていたはずなのだ。

 サッカーの中身そのものでは、日本は欧州に8年遅れることになったとは僕は見ている。

 攻撃的サッカーの追求も、もっと進んでいたであろうし、監督探しのレベルも上がっていたと思われる。中途半端な攻撃的サッカーで惨敗したブラジルW杯のような悲劇もなかった、と。

 ハリルホジッチの名前をいま聞くと、そんなこんなが走馬燈のように頭を過ぎるのである。