サッカーに誤審はつきもの。だが、中には度を超えたものもある。ホームタウン・ディシジョンが、もっと当たり前に存在したかつては、アウェイ側はPK一本分ぐらい覚悟しておいたほうがいいとされたものだ。近年では薄れつつある傾向とはいえ、これは日本にはない外国文化そのものになる。

 僕がこのカルチャーショックを初めて直に味わったのは、82年スペインW杯1次リーグ。スペイン対ユーゴだった。デンマーク人の主審は、これでもかというほど、地元スペイン贔屓の笛を吹いた。ペナルティエリアめがけて1m以上も手前からダイブしたプレイにPKを与え、そのPKが外れれば、ユーゴGKが蹴る前に動いたと言って、やり直しを命じる始末。開催国スペインを何とか2次リーグに進出させようと、これ以上ない不公平な笛を吹いた。以降ウン十年、僕はおかしな笛を数多く見てきたつもりだが、この試合に勝るものはないと思っている。

 相手のユーゴに勝って欲しかったという思いも、それを後押ししている。両国には、サッカーの魅力度という点において、雲泥の差があった。断然、魅力的だったのはユーゴ。パスワークに優れたテクニカルなサッカーと言えば、82年大会ではプラティニ率いるフランスを連想するが、ユーゴはその小型版と言って良かった。

 中心選手は、背番号7をつけたヴラディミール・ペトロヴィッチと背番号13をつけたスシッチ。何を隠そう、僕のニックネーム(スギッチ)は、後者の名前に由来するが、この2人を軸としたパス回しが、僕のサッカー心を刺激したことは確かだった。

 ハリルホジッチもそこにいた。後半途中からの出場だったが、脳裏にはしっかり記憶されている。現在のジェコ、マンジュキッチに通じるポストプレイ得意なセンターフォワード。一言でいえばそうなるが、風貌は少しばかり荒くれていて、将来の監督像をイメージさせるような理知的な感じではなかった。

 しかしその19年後、監督を現役時代の印象で語ってはいけないことを、僕は改めて痛感させられることになる。

 01〜02シーズン。欧州クラブ戦線の開幕を前に、日本国内はいつにない賑わいを見せていた。日本人初のチャンピオンズリーガー誕生なるか。一番乗りする選手はパルマの中田英か、フェイエノールトの小野か、アーセナルの稲本か。ファンの関心は、日本人の出世争いに集まっていた。

 チームでスタメンの座を確保していたのは、ローマから移籍してきた中田英。しかし、パルマには本選にストレートインする資格がなかった。前シーズン、セリエA4位。本選を戦うためには、予備予選の3回戦に出て、勝利を収める必要があった。

 相手はフランスのリール。当時、セリエAで「ビッグセブン」の一角を占めていたパルマにとって、このハードルは低いように映った。何よりメンバーが豪華だった。カンナバーロ、ミロシェビッチ、アルメイダ、ラムシ、センシーニ、ディバイオ等々、知名度の高い選手で固められたパルマと、リールの顔ぶれだけを比較すれば、試合前から勝負は決しているように見えた。

 だがその時、時代の風はパルマに吹いていなかった。

 その1年前の2000年、イタリア・セリエAは、それまで長年守ってきた欧州リーグランキング1位の座を、スペインリーグに明け渡していた。つまり、その2、3シーズン前から、イタリア勢は、チャンピオンズリーグで勝てなくなっていた。豪華な選手を抱えていたにもかかわらず、だ。

 原因は、90年代後半から、国全体が守備的サッカーに傾いていたことにある。ドイツ、東欧の一部諸国も、イタリアと同じ傾向にあったが、ドイツがこの前後から、方向転換を図っていたのとは対照的に、イタリア勢はカテナチオ路線に回帰したままだった。