一方、代表でのキャリアは、彼の実力に見合うものではなかった。15試合・8得点に終わったのは政治的な理由によるものと考えられる。
 
 当時の代表監督たちはセルビアやクロアチアの選手を重用したのだ。ハリルホジッチは不満を隠そうとせず、「おそらくベオグラードのメディアには、私の名前は長過ぎるのだろう」と皮肉をこぼしたこともある。
 現役引退後、彼はいったんサッカーから離れ、モスタールで悠々自適の生活を送っていた。だがその後、再びこのスポーツと深く関わるようになり、指導者を目指し始める。
 
 しかし、時は欧州再編の混乱期で、ユーゴスラビアの内戦の激化とともに故郷を離れざるをえず、家族とともにパリに移住。祖国の住居は焼き払われ、パリでは小さなアパートに4人家族が身を寄せ合うようにして暮らしていたという。コーチの職にもなかなかありつけず、フランスのライセンスを必死に取り直して、やっとの思いで2部のボーベに雇われることができた。
 
 ただし、本当の意味で指導者のキャリアが始まったのは、97年から指揮を執ったラジャ・カサブランカ(モロッコ)でのことだ。そこでアフリカ・チャンピオンズリーグを制した手腕を買われ、リールに引き抜かれると、2部で苦しんでいたチームをリーグ・アンに昇格させるだけでなく、チャンピオンズ・リーグ出場権までもたらしたのである。
 
 これで完全に名声を確立すると、その後も複数のクラブで実績を残したが、初めて代表を率いたコートジボワールでは屈辱を味わう。
 
 チームを2010年の南アフリカ・ワールドカップ出場に導いたにもかかわらず、協会と揉めて本大会の直前に解雇されたのだ。それでも、4年後のブラジル大会ではアルジェリア代表を率いて世界の舞台に参戦。ラウンド16で後に優勝するドイツと、延長戦にまでもつれ込む熱戦(延長戦の末に1-2で敗退)を繰り広げた姿は、記憶に新しい。
 
 これらの成功は偶然の産物ではない。彼は自らの信念にブレのないハードワーカーであり、選手たちへの言葉やアイデアも非常に明快だ。常に成功を追い求め、自信に満ちた強いキャラクターも備えている。
 
 ブラジル・ワールドカップ後にトルコのトラブゾンスポルを率いていた際には、フロラン・マルダと掴み合いになったとも報じられ、現役時代にはナントでパスを出さなかったチームメイトを怒鳴りつけたこともたびたびあった。それでも、ともに仕事をした者の多くがこの熱い男への敬意を失っていない。
 
 技術レベルは上がったかもしれないが、強さや激しさ、そしてなにより本当の意味での自信が足りないと言われる日本代表。また、決定力不足も積年の課題のままだ。酸いも甘いも噛み分けた強烈なパーソナリティを持つ名将が、選手たちのメンタル面を叩き直し、ストライカーとしての極意を授けることができれば──。
 
 ハリルホジッチの日本代表監督就任が、チームに面白い化学反応をもたらすかもしれない。

文:ウラジミール・ノバク
翻訳:井川洋一