理工系の高校に進学し、学業とサッカーを両立。「母は私が学業を疎かにすることを決して許さなかった」という。 (C)Reuters/AFLO

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 日本代表監督への就任が正式に決定したヴァヒド・ハリルホジッチ。このボスニア・ヘルツェゴビナ人指揮官は曲がりくねった長い道のりを経て、現在の地位を手にした。
 
 ハリルホジッチは1952年10月15日に、ヘルツェゴビナ(当時はユーゴスラビア)のヤブラニツァにある人口5000人ほどの小さな町で生まれ、裕福ではなかったが、5人の兄弟のいる大家族のなかでのびのびと育っていった。家の近くにグラウンドがあったため、幼少期からサッカーに親しむ一方、学校では常に優秀な成績を収めていた。
 
 地元のトゥルビナというクラブでプレーしていたが、彼の母はスポーツよりも学業を優先し、将来的にはエンジニアになってもらいたいと考えていたそうだ。実際、高校はモスタールにある理工系の学校を選択する。
 
 ちょうどその頃、ベレス・モスタールで頭角を現わしていた兄のサレムが、ハリルにも同じクラブに入るよう説得し、ユースチームでトレーニングに励むようになる。
 
 ただし、引き続き学業でもトップを維持していたため、本格的にサッカーの道に進んだのは18歳になってから。それ故に彼のプロのキャリアは、他の選手より比較的遅れて始まったのである。
 
「母は私が学業を疎かにすることを決して許さなかった」と、ハリルホジッチは振り返る。
 
「23歳で初めてユーゴスラビア代表に選出された時も、『勉強はどうするのか』と訊いてきたほどさ」
 
 おそらくエンジニアの道を選んだとしても、ひとかどの人物になっていたはずだが、有能なストライカーだった彼がサッカーを選択したことは、ベレスのファンを喜ばせた。
 
 72年から81年までトップチームに所属したハリルホジッチの出場試合数は400に迫り、250以上のゴールを記録(リーグ戦では207試合・103得点)。81年にはユーゴスラブカップ決勝で、名門ジェレズニチャル・サラエボを自らの2ゴールで下し、クラブに史上初のタイトルをもたしている。
 当時のチームメイトで、ウイングとして多くのアシストを供給したドラガン・オクカは、こんな逸話を教えてくれた。
 
「あの決勝は凄い試合だった。我々は二度も劣勢に立たされたが、そのたびにバハ(バヒドの愛称)が同点ゴールを決めてくれた。最後は82分に彼が打ったシュートのこぼれ球を私が決めて競り勝ったんだが、バハは自分が決めたかのようにファンの下へ走って行き、他の選手たちも彼についていった。得点者の私のほうには誰も来なかったから、仕方なく私も仲間のもとへ走って行ったよ(笑)。
 
 その後、『なぜ自分のゴールじゃないのに、あんなことをしたのか』と訊いたら、彼は笑ってこう答えた。『いつもの癖でね。ゴールすることに慣れているから、ネットが揺れた瞬間にファンのもとへ走り出してしまったんだ』とね。
 
 モスタールに帰ると、私たちは英雄として迎えられた。誰もが通りに出て優勝を祝っていたね。するとその数日後、トロフィーが急になくなってしまったんだが、犯人はバハだった。(重さが)20キロもあるトロフィーをクラブから持ち出して、故郷のヤブラニツァの人々や家族に見せたかったと言うんだ。
 
 もちろん、私や他のチームメイトも家族に直接見せてあげたかったとは思う。でもそんなことを実際にやってしまうのは、バハだけだったよ。強靭なパーソナリティのなせる業だよね」
 
 当時のユーゴスラビアでは、28歳になるまで国外への移籍が禁止されており、ハリルホジッチがナントに移籍したのも29歳の時だった。
 
 彼はそこでも成功を収め、在籍した5シーズンでリーグ優勝1回と2度のリーグ得点王を獲得。その後、パリ・サンジェルマンと大型契約を交わしたものの、プレーしたのは半年だけだった。理由は母親の死と父親の健康状態の不安で、その時に現役引退を決意した。