1988年3月21日、日本初の全天候型球場として開場した東京ドームで、3日前18日のこけら落とし、プロ野球・巨人vs阪神のオープン戦に次いで初めての格闘技興行が行われた。ドン・キングと帝拳ジムの協同プロモートによるマイク・タイソンとトニー・タッブスのボクシング世界ヘビー級王座戦。タイソンは当時、日本においてもそれだけの価値あるビッグスターであった。
 プロデビューから29連勝で20歳にしてWBC王座を獲得すると、翌年にはWBA、IBF王座も奪取。瞬く間に3団体統一を成し遂げた。
 ダッシュ一番、相手のパンチをかいくぐって懐深くに飛び込むと一気呵成のラッシュ。そのパンチ力はとにかく桁違いで、三冠統一までの31連勝中に判定までもつれこんだのはわずか4戦と、文字通り「KOの山」を築いた「世界最強の男」であった。
 日本初戦の相手、タッブスとてプロデビューから21連勝を誇った前WBA王者。決してかませ犬などではなかったが、これに何もさせずの2ラウンドKO。日本においてもタイソン神話は揺るぎないものとなっていった。

 それから2年、1990年2月11日にタイソンの日本2戦目が、同じ東京ドームで行われる。
 相手のジェームス・ダグラスは、長身だけが取り柄で目立った戦績もない典型的な当て馬。タイソンの勝利は揺るぎないと、恐らくはダグラス自身もそう思っていただろう。
 ボクシング史上最大ともいわれる番狂わせが、この日に起こるなど誰も予想だにしなかったのだ。

 ゴングと同時にタイソンはいつも通りに相手の懐へ飛び込もうとするが、アウトボクシングに徹して下がりながらジャブを放つダグラスにこれが届かない。
 それでもこれまでのタイソンであれば強引にラッシュを浴びせかけたはずだが、パンチはいずれも単発。いつもの両グラブを顔前で構える“ピーカブースタイル”とは違って両腕を解いていたのは、相手を格下と見て早めの決着を狙ったものだったか。
 しかし、その空いた顔面をダグラスの左ジャブが散発ながらも捉えていく。
 第5ラウンドまではその繰り返し。両者ダメージこそは感じられなかったが、パンチのヒット数ではダグラスが大きく上回り、タイソンの勝利を信じる観客にはフラストレーションばかりが溜まっていった。

 6ラウンドに入ってようやくエンジンが温まったか、タイソンはピーカブースタイルに構え直すと、飛び込んでのボディーやジョルト気味に打ち上げるストレートがダグラスに当たり始める。そして8ラウンド終了間際、ついにタイソンのアッパーでダグラスがマットに崩れ落ちた。
 カウントアウト寸前に立ち上がるが足元はおぼつかない。だがレフェリーが離れた直後にラウンド終了のゴングが鳴らされる。
 「後でビデオチェックしてこのときのカウントを計ると14秒もかかっていて、本来ならあそこでTKOの裁定が下ってもおかしくなかった。ラウンド終了間際でレフェリーが時間のチェックも同時に行っていたのがロングカウントの要因でしょうが、いずれにせよダグラスにとっては幸運でした」(ボクシング誌記者)

 そして迎えた第9ラウンド。タイソンは勝ちを決めようと前に出るが、そこにダグラスのジャブが決まると試合の流れは反転する。足だけは前に向かうタイソンだが、パンチが出ない。
 これを機にジェームスは2分過ぎからラッシュを仕掛けると、ロープ際でダウン寸前に追い込み、続く10ラウンド、ワンツースリーときれいに連打が決まったところでタイソンはまっすぐ後ろに吹き飛んだ。
 「この数戦前から、関係者の間ではタイソンの不調は言われていたけれど、まさかKO負けとは…」(同)
 ダグラスは次戦、イベンダー・ホリフィールドを挑戦者に迎えた防衛戦で3ラウンドKO負け。このことからも「ダグラスが強かった」というよりも、タイソン側に問題があったと見るべきだろう。

 この後のタイソンはレイプ事件で収監されるなど転落の一途。1996年にはWBC、WBA王者に返り咲いたものの、かつての快進撃のころには程遠く、ホリフィールド戦での“耳かみちぎり事件”以降、事実上の表舞台から退いたのだった。