『ナショナリズムをとことん考えてみたら』(PHP研究所)

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 ここ数年、政治関連の番組でよく見かけるようになった女性タレント──それが春香クリスティーンだ。

 1992年スイスに生まれ、日本人の父とスイス人の母を持つ彼女は16才の時に単身来日。趣味で政治家の追っかけをやっていたことなどから「政治に関心を持つタレント」として脚光を浴び、現在ではバラエティ番組などにも多数出演している。

 そんな彼女がこのほど新書を出版した。タイトルは『ナショナリズムをとことん考えてみたら』(PHP研究所)。いったいなぜ「ナショナリズム」なのか?

 きっかけとなったのは、自身が経験した「炎上事件」だ。2013年12月、とある情報番組に出演した彼女は安倍首相の靖国参拝についてコメントを求められ「もしもドイツの首相がヒトラーの墓に墓参りをした場合、他の国はどう思うのかということで議論されるわけですけど」と発言。このたった一言が「ヒトラー発言」として一人歩きし、主にネット上で猛烈なバッシングを受ける。

 なかにはツイッター上で「朝鮮帰れ」と罵声を浴びることもあった。スイス出身なのに「朝鮮」? そう、彼らの正体は「愛国者」を自認しながら、その実ネット上で仮想敵を見つけると何でも「在日」とレッテル貼りをする「ネトウヨ」だったのだ。「朝鮮帰れ」は対象を問わず、攻撃の決まり文句だった。以前朝日新聞に秘密保護法反対のコメントを寄せたことで右から、炎上から半年後には読売新聞に原発再稼働を容認するコメントを寄せたことで左から非難を受けた経験も重なり、彼女はネット上でのこうした「色分け」に辟易するようになる。

 バッシングを受けると、多くの人間は恐怖のあまり沈黙してしまう。当初は春香クリスティーンもそうだった。しかし、その後彼女は疑問を抱き始める。愛国的ナショナリズムと結びつけられて語られることの多いネトウヨとはそもそもどんな人々なのか? 政治的な「右」「左」の区別はそんなに簡単なのだろうか? 問いをたずさえ、彼女は萱野稔人、鈴木邦男、田原総一朗、三橋貴明という4名の立場が異なる論者に直接話を聞きに行くのだ。本書のなかにはその取材成果がまとめられている。
 
 こう書くとネトウヨへの「反撃本」というイメージを持たれるだろうか。「そうではない」点が本書のミソでもあることも強調しておきたい。彼女はネット上においては「『右』も『左』も『タコツボ化』していく」特徴があると断ったうえで、こう続ける。

「ネット上の議論がうまくかみ合わないのは『右』だけのせいではありません。(略)『ネトウヨ』だけを槍玉に挙げるのもフェアではないのでは?」

「タコツボ化」が一概に悪いわけではない。例えば本書のなかで田原総一朗が「集団的自衛権に『毎日』と『朝日』が反対していれば、『読売』と『産経』は賛成するから、両方読めば抜け落ちる情報はない」と述べているように、個人や媒体がそれぞれの立場をはっきりさせた上で、全体としてその意見を眺めるというバランスの取りかたもできるはずだ。

 しかし、彼女は「右」「左」が分極化した結果、例えば特定秘密保護法・原発再稼働に「反対」すれば左派、「賛成」すれば右派......というような極端な見方が生まれてしまうことを危惧する。これらはいずれも異なる背景を抱えた問題であり、簡単に一本の線でつなげられるようなものではないからだ。

「日本では、それらの問題をワンセットにして考えるような人が少なくないようです。まず『右』『左』という相容れない立場があって、『右』が賛成することに『左』はすべて反対。『左』が賛成することに『右』はすべて反対。そんな目に見えない枠組みがガッチリとはめられている......。だから私のような人間が何か発言するたび、見当違いなリアクションが起こるのだと思います。事前にレッテルを貼られるから、予想と違うことをいうと『裏切った』といわれる」

 ここから思い出されるのが「サヨクのワンセット」というフレーズだ。1998年、小林よしのりは『戦争論』(幻冬舎)のなかでマルクス主義・反権力をうたう「左翼」と、明確な思想を持たず人権・平和といったスローガンを振りかざす「サヨク」とを呼び分け、「戦後民主主義は『サヨク』なのだ」と非難した。社会学者の小熊英二は、戦争責任・男女平等・マイノリティの人権などの「サヨクのワンセット」と呼ばれる問題は、1970年代に起こった女性解放運動などを初発とするマイノリティの社会運動と新左翼との連帯に大きくかかわっていると指摘している(小熊英二 戦後日本の社会運動――歴史と現在 プレカリアート運動はどう位置づけられるか/「論座」2007年11月号)。

 昨年9月28日に行われた民主党大学では実際、小林と春香クリスティーン、さらには民主党代表(当時)・海江田万里を交えた会談が実現している。筆者もその場に居合わせていたが、そのなかで小林が「日本では若い人たちが政治の話をしない。『脱原発=左翼』など、政治が〈思想〉ではなく〈イデオロギー〉で見られているからだ」「迂闊に話すとネトウヨに『クソ左翼』だとかレッテルを貼られてしまう。若い人はそれが怖いから、意見を言いたくないんじゃないか」と述べたところ、クリスティーンも「そういうカテゴライズによって、右と左の距離感が生まれることがすごくもったいないと思います」と神妙にうなずいていた場面が印象に残っている。「原発・外国人排斥・集団的自衛権賛成」「原発・ヘイトスピーチ・集団的自衛権反対」など、中身を入れ替えれば現在でもこうした右左の「ワンセット」は簡単に作れてしまう。春香クリスティーンが見せているのは、まさにこれらパッケージへの「戸惑い」ではないだろうか。

 つまる所、彼女がもっとも危惧しているのは、自分を「右」とも「左」とも考えていない若者や、一般市民が、政治について語るのを恐れてしまうことだ。特定秘密保護法にしろ、原発再稼働にしろ明確な意見を持てるのは一握り。結局のところ「ふつうの人たちは、自分を『右』か『左』のどちらかにカテゴライズすることなどできない」という。どちらかを表明するだけで「叩かれる」状況では、「どっちつかず」層の沈黙は加速するだけだろう。

 こうした状況は、左右含めた「政治に関心がある人たち」と「どっちつかず」層との間にも分断線を引いてしまう。彼女自身、政治への関心を示すだけで周囲に敬遠される経験を重ねてきた。本来政治とは日々の生活に直結する「こっちの世界」の話であるにもかかわらず「それについて真面目に語り合うことが『面倒だ』『鬱陶しい』と思われてしまうのは、どのように考えても健全ではない」と危機感を訴える。

「このまま政治論議がネット上だけで進み、日常的な議論がなされないままでは『極端な人たち』の考え方だけが強い影響力をもつようになってしまいます。ほんとうの『民意』が蔑ろにされたまま、声の大きい人たちの意見だけが目立ってしまう。そうした状況はますます、若い人たちの『政治離れ』に拍車をかけるでしょう」

「右」と「左」、さらにはどちらでもない「どっちつかず」層。本書はどの立場にも肩入れしているようで、どこからも絶妙な距離感を取っている。どんな人が読んでも共感するポイントがある一方で、部分的な違和感も残るだろう。しかし、それは春香クリスティーン自身が「炎上『から』とことん考えてみた」結果、辿りついた境地なのだ。居丈高な「評論」ではなく、23歳の若者による「体当たり国家ルポ」として読むことをおすすめしたい。
(松岡瑛理)