FIFA会長賞のトロフィーを持つ賀川浩氏。日本人初、ジャーナリストとしても初の快挙である

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日本サッカー史に残る快挙だ。現役最年長、90歳のサッカージャーナリスト、賀川浩(かがわ・ひろし)さんが1月12日、FIFA(国際サッカー連盟)会長賞を受賞した。

2001年に創設されたFIFA会長賞は、サッカー界に特別な功績のあった個人や団体に贈られる賞で、過去には“サッカーの王様”ペレ(元ブラジル代表)や“皇帝”ベッケンバウアー(元西ドイツ代表)ら、そうそうたるメンバーが受賞している。しかも、賀川さんは日本人初というだけでなく、ジャーナリストとしても初の受賞だ。

昨年のブラジル大会を含めて、W杯取材は計10回。そして60年以上もの間、日本サッカーを鋭く、温かく見守り続けてきた“伝説の人物”が、世界の注目を集めた授賞式の様子を振り返るとともに自身の半生、さらにはアギーレ解任ショックに揺れる日本代表について語った。

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―FIFA会長賞の受賞、おめでとうございます。あらためて感想は?

賀川 自分はただ好きなことを続けてきただけ。そういう素っ気ない答え方しかできないね。ただ、皆さんが大げさにホメてくれるから自分でもいろいろと考えてみたんだけど、バカげた仕事を長いこと、ようやってきたなという感じはします。

―受賞スピーチでは、「日本の若い友人に(世界年間最優秀選手賞にノミネートされていた)クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル代表)やメッシ(アルゼンチン代表)らのサインをもらってくるのを忘れないでと言われた」と語り、笑いを誘いました。ちゃんとサインはもらってきましたか?(笑)

賀川 ロナウドとメッシは出席者の中でも別格で、常に多くのカメラマンに囲まれ、彼らが少し動けばカメラマンたちも一緒に動く。それどころじゃなかったね(笑)。

―他にも多くのスター選手や有名人がいました。

賀川 待ち時間にしんどくて、空いている席に座ったら、隣にイニエスタ(スペイン代表)がいてね。せっかくだから、「いつもあなたのプレーを見て感心しているんだ」と英語で話しかけたらニコッとしてました。それから、プラティニ(元フランス代表、現・欧州サッカー連盟会長)さんが「覚えていますよ」って握手しにきてくれた。ただ、(何度も取材している)ペレとベッケンバウアーが来ていなかったのは残念だったね。

―やはり華やかですね。

賀川 (女子最優秀選手賞のプレゼンターとして出席していた、なでしこジャパンの)澤(穂希)さんとも会ったけど、男子もバロンドール(年間最優秀選手賞)にノミネートされる選手の中に日本人選手が入ってくるようになればと思いました。

―帰国後はこうした取材対応や報告会などでバタバタされているようですね。

賀川 原稿の締め切りを忘れたり、ブログの更新をサボったり。ただ、こう言ってはなんだけど、アジア杯で日本がもっと勝ち進んでいたら皆さんの興味もそっちに全部向いていたはず(笑)。

―経歴についても少し聞かせてください。もともと記者になる前はサッカー選手。神戸一中(現・神戸高)時代には全国優勝していますよね。その1ヵ月後の1941年12月には太平洋戦争が始まり、その末期に特攻隊に志願。出撃の数日前に終戦したと聞きました。

賀川 志願といっても、あの戦争の末期には皆、特攻隊になりますよ。日本に爆弾が落とされている状況ですから。僕は軍隊に入っていたので、それを防がないといけない。そして、日本には敵の船を沈める武器がないから、自分で爆弾をつけて船に突っ込むという作戦になる。

特攻隊で渡された『部隊戦闘要領』というテキストのようなものには、最初に「敵艦船艇に驀進(ばくしん)衝突し…」と書いてありました。「爆弾を落として帰ってこい」とは書いていないんです。しかも、使う飛行機は練習機。こんなもんで突っ込ませるのか。もっといい飛行機持ってこい。こんな見込みのない戦争を、なんで日本は始めたのかとは思いました。

―戦争が終わったことを知って、最初の感想は?

賀川 死ななくてええのか。でも、これから俺はどないすんねん、と。

―当時はまさか自分がサッカーの記者になるとは想像もつかなかった。

賀川 ソウルから列車で1時間半くらいの街にいたんだけど、日本に帰れるかどうかもわからんかったから。ただ、現地の子供とボールを蹴ることがあって、そのときに、「ああ、日本に帰れたら、もう一度サッカーをやるか」と、チラッと思ったことはある。

―その後、新聞社に入り、記者稼業を始めますが、W杯出場が当たり前になった今とは、サッカーやサッカーを扱うメディアを取り巻く環境もまったく違ったのでは?

賀川 僕らの頃はW杯なんてね…。戦前はプロのそういう大会があるらしいと聞いたことがあるくらい。戦後になっても、54年のスイスW杯で日本が初めて予選に参加するまではよくわからなかった。また、86年のメキシコW杯の時にようやくFAXが使えるようになったんやけど、それまでは電話で原稿を読み上げ、それを書き写してもらっていました。

―これまで見たなかで、最も印象に残っている選手は?

賀川 世界ではペレ。日本では釜本(邦茂、元日本代表)。よく聞かれる質問なので、そう答えていますが、正直に言えば、誰かひとりの名前を挙げるのは難しい。

―印象に残る取材もたくさんあったと思います。

賀川 例えば、プラティニ。85年のトヨタ杯(現クラブW杯)でユベントスの一員として来日した時に取材を申し込んだのだけど、「ユベントスはスター軍団だから、僕だけが取材を受けるわけにはいかない」と言いつつも、ペンもノートもカメラもなしならOKだといい、お茶を飲みながら話をしてくれた。

で、「16歳の頃、どんな練習をしていたの?」と聞くと、「(コート中央にある)センタースポットからゴールを狙って、一日50本くらいシュートを打っていた」と言うんです。距離にして50mくらいですよ。普通の選手じゃ、まず入らない。それを16歳から蹴っているから、短い距離のフリーキックは、彼にとってコントロールショットと同じ。あの天才的なフリーキックはそうやって生まれたのかと納得しましたね。

■この続き、明日配信予定の後編ではアギーレ解任と日本代表の今後を斬る!

■賀川浩(かがわ・ひろし)

1924年生まれ、兵庫県神戸市出身。神戸一中(現・神戸高)サッカー部に入部し、5年時に全国優勝。52年、産経新聞社に入社し、74年にサンケイスポーツ編集局長に。同年の西ドイツ大会から2006年のドイツ大会まですべてのW杯を取材。10年の南アフリカ大会は持病の腰痛悪化のため断念するも、14年のブラジル大会は取材した

(取材・文/渡辺達也 撮影/ヤナガワゴーッ!)