『徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)』篠田 達明 新潮社

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 今年、徳川家康の没後400年目を迎えます。天下統一を果たしたものの、家康の人生は艱難辛苦の連続でした。

 1542年に三河国に誕生した家康は、幼名を竹千代と言いました。3歳で母と生き別れ、8歳で父を亡くします。隣国では、織田信秀(織田信長の父)と今川義元が国を治め、幼い家康は14年の長きにわたり、両国の人質となって過ごします。まず、6歳の時に今川側の人質として駿河国に送られるはずが、途中で護送役の裏切りにあい、織田側に送られてしまいます。8歳の時には、今川側の人質になっていた織田信秀の庶子・信広と人質交換されて、織田側から今川側の人質になり、19歳まで今川氏の下で成長。織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いを契機に、長い忍従時代にピリオドを打ち独立、戦国大名への道を歩み出したのでした。

 そんな苦労を重ねたためでしょうか、用心深い性格に育った家康は健康オタクなことでも知られています。医学書を読み漁り、自ら漢方薬を調合したほか、健康維持のために鷹狩りなどの"アウトドアスポーツ"に熱中。おかげで身体は極めてすこぶる健康で、1616年に75歳で亡くなるまで、19人の子どもをもうけ、しかもそのうち3人は60歳を過ぎてから若い側室との間に誕生しています。

 ところで家康の死因については、「鯛の天ぷらによる食中毒で亡くなった」という説が人口に膾炙していますが、これに異を唱える説もあります。

 医師で作家の篠田達明さんは、著書『徳川将軍家十五代のカルテ』の中で、医史学者・服部敏良博士の「家康の死因は胃がんではなかったか」という説を紹介。その根拠としては、家康は発症前から食欲がなく、体が痩せてきていた点、侍医の触診でしこりに触れた点、そして亡くなったのは発症から3カ月も経過していた点を挙げています。

 もし、これが鯛の天ぷらによる食中毒であれば、もっと短期間で決着がつくはず。家康はかなり前から胃がんにかかっており、鯛の天ぷらは症状を表面化させたきっかけにすぎないだろうと推測しています。

 なお、家康はこのとき、激しい痛みやしこりを寄生虫のサナダ虫だと自己診断。侍医の診断に耳を貸さずに、自分の薬を服用していました。超健康オタクだったがゆえに、人生の最期で自ら誤診し、亡くなったのは運命の皮肉としか言えません。

 本書では、初代将軍・家康から始めて、最後の将軍・慶喜まで、15代の将軍を網羅して紹介。病歴以外にも人物エピソードも交え、楽しく読めるカルテとなっています。家康ほか徳川将軍の生涯を知る入門書として、ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。