「歴代最高の日本人ボクサーは誰か」との問いに対してはファンの中でも議論百出となろうが、団塊の世代あたりに絞って同じ質問をしたときには、きっと1人の選手への支持が集中するに違いない。
 “逆転の貴公子”そして“永遠のチャンピオン”…。第25代WBA世界フライ級王者・大場政夫だ。

 まだ根性論が一般的にも通じていた'70年代初頭、大場はまさにその“根性”を武器にして戦い、世界王者であり続けた。
 決してハードパンチャーでもなければスピードがずば抜けているわけでもない。教科書通りのきれいなワンツーをひたすらに繰り返す、いわば“愚直”なボクサーであったが、それを試合終了の瞬間まで続けるスタミナと精神力は、とても余人に真似できるものではない。
 打たれ強いということもなく、試合序盤にダウンを喫する場面もしばしばであったが、それでもとにかく、心折れることなくワンツーを放ち続ける。そうするうちに、試合も中盤に差し掛かったころには徐々にパンチが相手を捉え始め、チャンスと見るや、そこから一転してラッシュを仕掛け、仕留める。
 自身のダウンというピンチから始まった試合を根性で盛り返し、最後は見事勝利を収める。そんな漫画のような試合をリング上でまさに実現してきた。

 「ただ大場は、世界王者になるまでは決して打ち合うタイプのファイターではなく、高い身長とリーチの長さを生かしたアウトボクサーだったんです」
 こう話すのは古参のスポーツ紙記者。
 確かにその戦績を見ると、王座奪取となった1970年10月のベルクレック・チャルバンチャイ戦以降はノンタイトル戦も含めた10戦のうち六つのKO勝ち。それ以前のプロ28戦中でのKO勝利は10度で、王者としてより強い相手と戦うようになってからの方がKO率は上がっている。
 「当初は虚弱にも映るほど細かった身体が、王座に就いたころからしっかりしてきたというのもあるでしょう。ただ、あえてファイトスタイルを変えた部分もあったのではないか。あれは2度目の防衛戦だったか、アウトボクシングに徹して判定勝ちした大場は『他の日本人王者の負けが続いていたので、連敗を止めるために今日は安全運転した』との旨のコメントを残しています。単に勝つことだけが目的だったなら打ち合わない試合もできたというわけです」(同・記者)

 内面から湧き出る闘争心ゆえか、あるいはプロとして魅せることに徹したのか。いずれにしても、そんな大場の試合ぶりは当時のボクシングファンたちのハートをガッチリとつかんだ。
 その集大成ともいえるのが、1973年1月2日、日大講堂で行われたチャチャイ・チオノイ戦。5度目の防衛戦であり、そして、これが大場のラストファイトとなった。
 初回、いきなり相手のパンチを食らった大場はダウン。しかも倒れた際にはバランスを崩して、足首を捻るアクシデントにまで見舞われる。観客からも脚を引きずる様子が見て取れるほどで、インターバルには氷水で足首を冷やしながらの試合となった。
 だが、それでもひるむことなく大場がパンチを繰り出し続けると、徐々に形勢は傾き始める。
 そうして迎えた第12ラウンド、ようやく最初のダウンを奪った大場は、そこから息をもつかせぬ怒涛のラッシュで一気に3ダウン。逆転のKO勝利だった。

 だが、日本中を歓喜に沸かせた試合からひと月もたたない1月25日。大場は天に召されることになる。
 少年時代の貧乏暮らしから「母に家をプレゼントする」との一心でボクサーとなった。そして、念願かなってファイトマネーで一軒家を建てた--。そんな大場が、ようやく自分の趣味のために購入したスポーツカー、シボレー・コルベット・スティングレー…。
 首都高速5号線のカーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越え、大型トラックと正面衝突。車体はひしゃげ、折れ曲がっていた。
 肋骨が11本折れ、脳脊髄液が飛び散るほどの大惨事であったにもかかわらず、その顔だけはなぜか無傷で、眠ったように見えたという。
 愛車と同じ、純白のスーツ姿だった。