とある高級時計店で、店員と雑談をしていたところ、最近困ったお客さんが増えているという。彼らは「時計を着けながら、スポーツをしたい」とオーダーするそうなのだ。

 そもそも高級時計(特に機械式時計)には、繊細なパーツが使用されており、衝撃はご法度。日常生活で普通に使う分には問題ないが、ランニングや日曜大工なども避ける必要がある。ましてや激しいスポーツをしながら時計を着用するなど言語道断である。

 ではなぜ「時計を着けながら、スポーツをしたい」という人が増えているのか? それは超高級時計メーカー「リシャール・ミル」のせいである。

 リシャール・ミルは特殊な素材と特殊な構造を考案し、軽くてタフな時計を作る。そしてその時計を著名なアスリートが着用し、実際に試合やレースに臨んでいる。

 テニスのラファエル・ナダルやF1のフェリペ・マッサ、ゴルフのバッバ・ワトソンがその代表なのだが、どのスポーツも繊細な機械式時計には向いていない競技ばかり。しかし、その意外性が宣伝効果を高め、数千万円という超高価格なモデルにもかかわらず、飛ぶように売れているのだ。

 しかし、間違ってはいけないのは、これはあくまでも特殊な例。リシャール・ミルの時計が、きわめて特殊なのだ。

 先日、スイスのジュネーブにて、高級時計の展示会「SIHH(Salon International de la Haute Horlogerie)」が開催されたのだが、今回もリシャール・ミルは"特殊な"スポーツウォッチを発売してきた。

『RM 61-01 Yohan Blake Black Edition』は、ジャマイカのスプリンター、ヨハン・ブレイク(※)とのパートナーシップモデル。実際に時計を着用してレースに臨むため、空気抵抗を考慮して左右非対称のケースデザインを採用しているのがポイントだ。しかも時計自体が超軽量。ベゼルとケースバックにはTZPブラックセラミックを使用し、ミドルケースには30ミクロンという薄いカーボンの層をずらしながら重ね、圧力をかけて熱処理を行なうNTPTRカーボンという特殊素材を使っている。さらにムーブメントは、極限まで肉抜き加工しており、時計の重さは82gしかない。

※ヨハン・ブレイク
1989年ジャマイカ生まれ。ジュニア世代から才能を発揮し、ウサイン・ボルトと共に世界を席巻。2012年のロンドンオリンピックでは、100m、200mともに銀メダル。4×100mリレーでは金メダル。愛称はビースト。

 このように、全てが異例で特別な仕掛けを満載して、ようやく「時計を着けながら、スポーツができる」時計が出来上がるのだ。

 高級時計ブランドの多くが、人気アスリートをアンバサダーに任命し、そのスマートなイメージを利用してブランドイメージの向上を狙っている。しかしアスリートと時計との間で共通しているのは、あくまでも"イメージだけ"である。

 ところがリシャール・ミルのスポーツウォッチの場合は、時計自体にもアスリートの躍動感や肉体的タフさを投影している。緻密なトレーニングを基に磨き上げられたアスリートの肉体と同じく、一切の無駄のない美しさがある。つまり時計とアスリートとの間に乖離がないのだ。

 トップアスリートの分身だからこそ、数千万円という価格になるのであり、熱狂的に支持されるのだろう。

篠田哲生●文 text by Shinoda Tetsuo