『凍える街 (創元推理文庫)』アンネ・ホルト 東京創元社

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 海外の作家にはときどき意表を衝くプロフィールの持ち主がいる。

 アンネ・ホルトもその1人だ。この人、1996年から翌年にかけて、ノルウェーの法務大臣の地位に就いていたのである。1958年生まれで、ベルゲン大学在学中にノルウェーの国営テレビ放送局に勤務、卒業後は首都のオスロ市警に検察官として働き、すぐにテレビのニュースキャスターに転職、それを辞めると弁護士になったが、1993年に長篇『女神の沈黙』(集英社文庫)を上梓して職業作家としてデビューを飾った。他人が羨む職業に次から次に就いていたわけであり、よくもまあ多彩な才能を持ち合わせていたものだと思う。『女神の沈黙』の主人公であるオスロ市警の警官ハンネ・ヴィルヘルムセンは、以降の作品にも登場する人気キャラクターになった。

 そのハンネ・ヴィルヘルムセン・シリーズの第7作にあたるのが新刊『凍える街』だ。クリスマスの祝祭まであと一週間足らずと迫った2002年12月19日、オスロ西部の高級住宅街で4人が犠牲者となる多重殺人事件が起こった。被害にあったのは海運会社を経営するヘルマン・スタールバルクとその妻トゥーリド、長男のプレーベンの3人と、身許不明の男性である。後に警察の捜査により、彼はクヌート・シーデンズヴァンスであると判明する。

 たまたま近くに住んでいたハンネは現場に急行し、以降もこの事件の捜査に携わることになる。上司であるイェンス・プントヴォル課長をはじめとする捜査陣の意見は、スタールバルク一家の中に犯人がいるというもので、プレーベンによって会社の経営権を奪われた次男のカール・クリスチアンとその妻マベッレ、甘やかされて育った長女のヘルミーネらに焦点を絞るべきだという声が高まる。しかしハンネは、犠牲者の一人であるシーデンズヴァンスにも注意を向けるべきだと主張し、プントヴォルと対立するのである。中途にハンネが、警察官が予見を持つことの危険について説く場面があり、そのくだりは非常に興味深い。また、ハンネたちが気づかない場所に多数の手がかりが振りまかれており、そのことが読者のみに判るように書かれている。ハンネたちがいつ気づくのか、ということが興味を惹くことになるのである。

 本シリーズの特徴は、ハンネ・ヴィルヘルムセンが同性愛者であるということにある。ノルウェーで同性間のパートナーシップを保障する制度が出きたのは1993年のことで、以降2009年に同性婚が認められるまで、段階的に社会的に受容されてきた。本シリーズはその変遷とともに歩んできたのである。ハンネにはビリー・Tという大男の相棒がいる。彼は密かにハンネに思いを寄せているのである。二人の関係はビリー・Tの恋愛感情のためにしばしば危機を迎える。またハンネには恋人がいるが、自身が両親の愛情を知らずに育ったために、他人を深く愛することが難しいのである。こうした主人公と周囲の男女との関係性が、物語の中では事件と同等の重みをもって語られる。

 ハンネが機能不全家庭に生まれたということはもう一つの重要な点だ。シリーズに登場する家族は本書のスタールバルク一家をはじめ、みな壊れてしまっている。表面からは見えない腐敗が事件によって暴かれるという構図なのである。ハンネの場合は自身が同性愛者であることが家族に理解されなかったということもあり、自身が家族を持つという決断がなかなか下せずにいる。一見自明の家族観に、彼女は常に異議申し立てを行っているのである。『女神の沈黙』が翻訳刊行されたころはこうした見方をする人はまだ少数派だったかもしれないが、現在ではハンネと痛みを共有できる読者も多いはずだ。

 第三の魅力として、アガサ・クリスティーの影があることも付言しておきたい。実は本書は、クリスティー中期の傑作に構造が酷似している。訳者あとがきにもその点が指摘されているので、本篇読後にご確認いただきたい(先に見ると予断が生じてしまうため)。同じ訳者あとがきによれば、本書の続篇は『オリエント急行の殺人』を強く意識した内容になっているとのことである。ぜひとも翻訳を望みたい。

(杉江松恋)