笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)
関ヶ原合戦から大坂の陣へといたる過程で、家康はどのような政権を築きあげ、そのなかで豊臣家への対応はいかに変化していったのか。新たな見地のもと定説が次々と覆されていくのが、読んでいて痛快だ。著者は国際日本文化研究センター教授(日本近世史)。

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今年、2015年は徳川家康の死去から400年目にあたることから、「家康公四百年祭」が静岡県を中心に開催される。先週土曜、1月17日には静岡市の静岡浅間神社にて四百年祭の始まりを告げるセレモニーが行なわれた。これから年間を通し、家康の生地・愛知県岡崎市を含め各地で100を超すイベントが予定されている。

家康は亡くなる1年前、1615(慶長20/元和元)年には大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしている。大坂の陣は、その前年の旧暦11月に起こった冬の陣に始まる。冬の陣は東西両軍の和議が結ばれ、戦闘は翌年5月の夏の陣までいったん休止に入った。冬の陣の和議が成立した慶長19年12月20日は、太陽暦でいえば1615年1月19日、つまりきょうでちょうど400年を迎えたことになる。

■家康の言いがかりではなかった?――方広寺鐘銘事件
大坂の陣の発端としては、方広寺大仏殿(京都)の再建にともなう「鐘銘事件」がよく知られている。方広寺は豊臣秀吉の発願によって京都に建てられたが、慶長元(1596)年の大地震で倒壊した。その再建工事が秀吉の没後、息子の秀頼の手によって進められ、同17(1612)年に大仏殿が完成、さらに同19年4月16日に鐘が鋳造された。問題となったのは、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘だ。これに家康は「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だと激怒したと伝えられる。家康はその9年前、征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り、このころには駿府(静岡県)に在城していたが、大御所としてなおも権力を振るった。

家康が鐘銘を問題視したのは、単なる言いがかりだというのが従来の定説だった。あるいは銘文については言いがかりとはいえ、家康が怒ったのはむしろ、統治者である自分に相談なしに豊臣方が銘文をつくらせたことに対してだと説明する本もある(高木昭作「家康の国づくり 「役」と諸法度」、『週刊朝日百科 日本の歴史28 中世から近世へ8 徳川幕府』)。

だが最近になって、この説に対し異論が出てきた。歴史学者の笠谷和比古は、2007年刊の著書『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』のなかで、「国家安康」の銘は家康の言いがかりではなく、銘文をつくった者(撰文者)が意識的に用いたものだと主張した。根拠となるのは、撰文者の清韓(東福寺の高僧)が、幕府側の取り調べに対して提出した弁明書だ。そのなかで清韓は、「家康」と「豊臣」の文字を、漢詩や和歌などで用いる隠し題のようにして織り込んで文章を作成したと明言していた。

意識的な撰文であったとすれば、どのような意図で「家康」の名を用いたのか。清韓は祝慶の意を込めて記したと弁明している。だが当時は、人を本名=諱(いみな。忌み名の意)で呼んだり、諱を無断で碑銘に使ったりすることが礼を失する行為とされた時代だ。とすれば家康が銘文に、自分を呪詛する意図を読み取ったとしてもおかしくない。銘文のうち「君臣豊楽」のほうは「豊臣」の文字を用いて、秀頼や秀吉などの諱を避けているだけになおさらだろう……というのが、笠谷説のあらましである。

■家康は豊臣家との共存を願っていた?
もっとも、鐘銘事件はあくまで直接的なきっかけにすぎない。その少し前から家康は豊臣家を攻撃する契機をうかがっていたとされる。その理由にもさまざまな説がある。一例として、日本列島全域を支配するためには、どうしても豊臣家が拠点とする大坂を掌握する必要があったという見方があげられる。関ヶ原の合戦(1600年)ののち家康は国家運営の主導権を握ったとはいえ、その拠点は東国であり、西国まで支配するには天皇のいる京都と、港湾都市機能のある大坂を一体的に押さえなければならなかった。朝鮮・中国、あるいはヨーロッパの新勢力(オランダ・イギリス)との貿易のためにも、家康は大坂の掌握を常に見据えていたという(山本博文編『偽りの秀吉像を打ち壊す』)。

あるいは、前出の笠谷和比古は、「二重公儀体制」という見解にもとづき、家康の思惑を説明している。二重公儀体制とは、家康の将軍任官(1603年)から大坂の陣にいたるまでの政治体制を、秀頼を頂点とする「関白型公儀」と家康を中心とする「将軍型公儀」の併存体制としてとらえたものだ。意外なことに、家康は関ヶ原で勝利し将軍となってからも、あくまで徳川と豊臣の両家の平和共存を願っていたという。だが70代に入り、自分の死後を考えるようになると、秀頼を差し置いて、西国を中心に勢力を振るう豊臣系諸大名らが、実績のない徳川秀忠につくことは覚束ないと思い至る。そこで自ら敷いた徳川・豊臣の共存路線に対し、あえて軍事的清算をもってのぞまざるをえなくなったというのだ(前掲、『関ヶ原合戦と大坂の陣』)。

■大坂城の内堀まで埋めたのは約束違反だったのか?
大坂の陣をめぐる家康の狡猾さを示す有名なエピソードとしては、鐘銘事件ともう一つ、大坂城の堀の埋め立てに関する話がある。これは、冬の陣の講和では惣構え堀(外堀)だけを埋める約束であったのを、徳川方は二の丸・三の丸の堀(内堀)まで一気呵成に埋め立ててしまい、大坂城を丸裸にしてしまったという話だ。だがこの話は、後代に記された書物には出てくるものの、当時の一次史料には見当たらないという。

じつは、内堀は豊臣方の手で埋めるものと当初から予定されていた。その証拠に、のちの熊本藩主・細川忠利は、講和直後の慶長19年12月26日付の、国元の家臣宛ての書状のなかで、「二ノ丸、三ノ丸は城中人数にてわり申候」と書いている。だが、豊臣方の作業が一向に進まず、それにしびれを切らした徳川方は、ついに人夫を送りこんで工事を強行したという。上記のエピソードはどうやら、それがおおげさに伝えられたがために生まれたというのが真相らしい。

なお、このとき埋め立てられた三の丸堀はその位置が長らく謎だった。それが2003年の大阪府警本部の建て替えにともなう発掘調査で、L字型に曲がる巨大な堀が姿を現し、ついに位置が確定された。この堀から出土した遺物整理の過程ではある木簡が発見され、話題を呼んだ。それは「菅平右衛門」という人名の書かれた木簡である。その表には「菅平右衛門様 赤右衛門」、裏には「鴨 □衛門」と墨書され、上部の左右に紐を結ぶ切りこみがあることから荷札木簡だと判明、おそらく差し入れの食料として鴨の首にくくりつけられていたものだろうと推測された(黒田慶一「豊臣氏大坂城と三の丸論争」、鈴木重治・西川寿勝編著『21世紀を拓く考古学3 戦国城郭の考古学』)。

鴨の受取人である菅平右衛門は、もともとは海賊の出身で、淡路・洲本城主だった武将である。関ヶ原の合戦で西軍についたため領地を没収され、このあと藤堂高虎の領内での蟄居を経て高虎に仕えた。冬の陣にも高虎軍の一員として参陣、しかし堀の埋め立てをめぐって高虎と口論となったあげく切腹している。じつは木簡出土より前、1998年に火坂雅志が「天神の裔(すえ)」という小説(短編集『壮心の夢』所収)で平右衛門を主人公にとりあげ、その最期まで描いていた。

平右衛門は内堀の埋め立てに反対していたと伝えられる。その願いむなしく、彼が切腹を命じられたのは慶長19年12月26日のことだった。同月19日に妥結された講和は、22日に誓書が交換され、翌23日には堀の埋め立てが始まる。平右衛門宛ての荷札木簡が出土した三の丸堀の埋め立ては25日、つまり彼の切腹の前日に開始されたという。

果たして平右衛門は鴨肉を食すことができたのか? 少なくとも24日以前に食していたとは考えにくいようだ。というのも、その頃に鴨が届いていたのなら、荷札は先に埋め立ての始まった外堀に捨てられていたはずだからだ。ここから鴨は25日以降に到着したものと推測される。ゆえに平衛門は鴨を食せなかった可能性もあるし、あるいは、ぎりぎりまにあって最後の晩餐となっていたかもしれない。

そういえば、来年のNHK大河ドラマでは、三谷幸喜作・堺雅人主演で真田信繁(幸村)の人生をとりあげるという。当然、劇中では大坂の陣も描かれることは間違いない。大坂の陣で豊臣方として善戦した幸村に対し、心ならずも徳川方についた平右衛門を登場させるってのもありじゃないですか、三谷さん!?
(近藤正高)