小谷野敦「ヌエのいた家」掲載の「文學界」2014年9月号

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いよいよ来ました運命の日。第152回芥川・直木賞の候補作をすべて読んで行う事前予想企画、今回もやってみました。
ちらは芥川賞。毎回同じで★で表しているのは受賞の本命度ですが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます(5点が最高。☆は0.5点)。(直木賞編はこちら)

■上田岳弘「惑星」(初。「新潮」2014年8月号)
今回の候補作の特徴として新潮新人賞出身作家が5人中3人もいることが挙げられるだろう。第44回から46回まで3回連続で候補作になっている。こうなると、現在の純文学界で最も勢いのある賞は同賞であると言わざるをえない。
その新潮新人賞からの候補作の第一が上田岳弘「惑星」だ。上田は2013年に「太陽」で第45回新潮新人賞を受賞してデビューした。「惑星」は第27回三島由紀夫賞候補作にもなっており、両作は対をなす作品である。『太陽・惑星』としてすでに単行本化もされている。
「太陽」「惑星」に共通するのはその視点の位置である。複数の人間を俯瞰するような神の視点、もしくは叙事詩の語り手の位置から叙述が行われ、未来の出来事もしばしば先取りする形で読者に伝えられる。「惑星」は全編がYozoh.UchigamiからDr.Frederick.Carsonに宛てたメールという形で綴られる小説で、送り手は内上用蔵という精神科医であることがやがてわかる。彼は「最終結論」を自称、また受け手であるフレデリック・カーソンを「最強人間」と呼んでいる。語り手には大多数の人間の運命が最初からわかっているようなのだが(ゆえに「最終結論」)、カーソンを「最強人間」と呼ぶ理由は話がかなり進展しないと判明しない。カーソンはビル・ゲイツなどを連想させるIT事業者の雄で、メディアの進化によって人間および社会の変容が可能であると考える人物だ。
先行する「惑星」には、人間を人間たらしめている境界を消失させ、それによって画期的な進化を遂げさせるという思考実験が含まれていた。本篇もその延長上にあり、人間個々の差異を無化することによって世界が安定化されるという未来のビジョンが示される。ネットメディアを通じて人間がつながってしまう現代のありようがそこには投影されており、個と全体の対立項を解消することの難しさ、全体を調和させうる統一倫理が存在しえないことが逆説的に書かれている。伊藤計劃などの現代SFを意識した作品であり、こうした作品が芥川賞の候補作として選ばれたという点は興味深い。技巧の面でいえば、語りの形式をメールによる対話にした点は、私にはなぜそれが必要であるのか理解できなかった(意図はなんとなく判るのだが)。SFに疎いためだろうか。不明を恥じる。評価は★★★。

■小野正嗣「九年前の祈り」(4回目。「群像」2014年9月号)
小野正嗣は、候補回数で今回最多である。本作の主人公は35歳になるシングルマザーのさなえで、離婚したカナダ人の夫フレデリックとの間に希敏(けびん)という一人息子がいる。彼女は大分県の海辺にある小さな集落に戻ってきたのだ。本作の第一の特徴はこの集落の人々の素朴な感受性であり、思ったことはなんでも口に出して言う。そこが方言丸出しであったり、誤用をなんとも思っていなかったりするところが愛おしく、たとえばさなえの夫のことは「ガイコツ人」という言い方になる(それを言うなら外国人だ)。さなえは自分にぶつけられるそういった言葉の数々をやや疎ましく感じている。
 その屈託の理由は彼女が結婚に敗れて帰郷したためだけではなく、希敏にもあるのだということが次第にわかってくる。希敏はなんらかの発達障害を持っていて、きっかけがあると大人たちの手に負えない状態になってしまう。それをさなえは「引きちぎられたミミズ」と表現するのである。この母子の関係と、さなえが「みっちゃん姉」と呼ぶ渡辺ミツという婦人と息子の関係とが作品の中では対比されることになる。ミツの息子は最後まで登場しないが、重い病気に罹っているという情報が明かされる。小説の現代パートとして、さなえの一家がミツの息子を見舞いに行くまでが書かれており、それにカットバックする形で、九年前にミツと行ったカナダ旅行という過去のエピソードが置かれている。さなえが心の拠り所としているらしい「みっちゃん姉」がいかなる人であるか、また、その安らぎの根拠はどこにあるかということは、そのエピソードの中で語られる。
 母子の関係が取り沙汰されることの多い時代である。母子関係を社会の構成要素の基本単位であるかのように言う人までいる。その中では当然、生きづらい思いをしている人もいるはずだ。生きづらさとは突き詰めれば極私的なものであり、他人と比べることもできない。そういう閉ざされた心理世界を、箱庭のように完結した小さな舞台として作者は書いているのである。さなえの心理の脆い部分も作者は臆せずに書いている。それは小説の最後で訪れる小さな救いと一対のものなのだ。小説を読むという個人的行為をすることにより、読者もこの小さな救済を追体験することができる。現代的なテーマをあくまで個人の視点から描いた作品で、非常に好感を持った。評価は★★★☆。

■小谷野敦「ヌエのいた家」(2回目。「文學界」2014年9月号)
前回候補となった『母子寮前』は母親を癌で喪った経緯を綴った私小説であった。母への思慕が率直に表明されていて非常に好意を抱いたのだが、同時に驚かされたのが妻に対して無神経に当たる夫、すなわち主人公の実父に対する憎悪があまりにもむき出しに描かれていた点だった。その父親の老後と死までの顛末が書かれたのが今回の「ヌエのいた家」であり、『母子寮前』の姉妹篇といっていい内容である。
前作では「鵺」、今回は「ヌエ」と表記される父親に対し主人公(藤井と名乗る)は、「ヌエが幸福そうなのが残念で、糞尿まみれになって死んでくれれば良かったのに」と表明するほどに冷たく、嫌悪感を隠さない。作者は、ヌエがいかに小人物でつまらない男であったかということを執拗に書き立てるのだが、それがユーモアを醸し出す結果にもつながっているのである。若いうちには文学青年志向のあったヌエが主人公の知らないうちに『村上春樹ブック』のようなムックを買って勉強していた形跡があったというエピソードだとか(藤井は村上春樹が嫌いなのである)、ディテールのひとつひとつが可笑しい。
藤井は美化されることなく自己中心的な人物で、いちいち「うん、うん」と頷いて話を聞く看護婦を叱りつけ、のみならず婦長に電話をして苦情を言ったり、宅急便の配送業者を怒鳴りつけたり、と大人気ない。いちばん可笑しかったのは、火葬場に行くついでに書店で「何かつまらんものでも買おうか」と思い立ち「『ふしぎの海のナディア』のアニパロ・アンソロジー」を買うというくだりで、ここは何回か読み返して笑った。あと、小学校の同級生の近藤・小林というコンビのエピソードも。
個人的には今回、両賞の候補作中でもっとも笑わせてもらった作品であった。『母子寮前』のリベンジを果たしてもらいたい気持ちもある。ゆえに評価は★★★★。

■高尾長良「影媛」(2回目。「新潮」2014年12月号)
そして「新潮」勢2人目となるのが高尾長良である。高尾は2012年に『肉骨茶』で第44回新潮新人賞を獲得し、デビューを果たした。1992年生まれなので同賞の最年少記録である。同作で初めて芥川賞にノミネートされた。「影媛」は作者の第2作にあたる。
読み始めてびっくりした。文体が前作とまったく違うのである。『肉骨茶』は17歳の高校生・赤猪子のダイエットへのこだわりを軸とした小説だった。「影媛」は一転して日本の古代と見られる世界が舞台となる。「先の大王(おおきみ)が崩(かむあが)ってから未だ一ト月も経っていない」と語られる状況で、物部氏の娘・影媛が登場する。彼女は憑き神となって祖先の口寄せをすることができるのだ。ある日影媛は翠鳥(そにどり。カワセミのこと)に憑依して森を飛ぶうちに、平群家の志毘(しび)が鹿を狩る場面に遭遇する。そのことから志毘に気持ちを寄せるようになるのだが、影媛の与り知らないところで彼女を新しい大王に娶らせんとする話が持ち上がっていた。そのために悲劇が起きてしまう。
これは題材を「日本書紀」の記述に求めた歴史小説、もしくは神話小説である。物部影媛の父親は物部麁鹿火(あらかひ。あらは「鹿」の上がクとなる字)であり、6世紀の人だ。仁賢天皇崩御後に武烈天皇が即位するが、大臣であった平群真鳥と大連であった大伴金村の間には政争があり、武烈天皇は平群氏の専横を快く思わず、金村を用いてこれを討った。物部氏は大伴派だったのである。平群志毘と影媛の恋愛もそのために成就せずに終わる。
現代小説から擬古文を使っての歴史小説への大胆な転換ではあるが、志毘が狩った鹿肉についての描写が緻密である点など、前作との共通点はもちろん多い。作者が20代前半と十分若いことを考えると、才能の幅を見せつけたものとして好意的に評価されるのではないだろうか。現在の選考委員ならばこれを筆のすさびとして撥ねつけない度量があると期待する。評価は★★★。

■高橋弘希「指の骨」(初。「新潮」2014年11月号)
新潮新人賞からの候補3作目はこの作品である。作品の舞台は第二次世界大戦末期のニューギニア戦線だ。主人公は名前を与えられていない一等兵の〈私〉である。〈私〉は銃創を負い、タコ壺の中で一旦は死を待って眠りに就いた。しかしそこで死ぬことはなく、救出されて野戦病院送りとなったのである。左肩を吊ったままの〈私〉は、顔中に包帯を巻いた眞田、左手首を失った清水といった同じ階級の兵士たちと一緒に病棟で暮らすことになる。現地の民族であるカナカとの交流、元は左利きであったが今は右手で鉛筆を持つ清水の絵描き、暇を持て余した入院患者の間で流行った将棋などの日常的なエピソードが序盤では語られる。しかしもちろんのどかなだけではなく、最初から死の影は濃厚である。〈私〉が、共に出征してきた同郷の兵士たちの死について語るからだ。その〈死〉は過去のものから次第に現実になる。入院患者たちが次々に死んでいくのである。それも我が身に負った傷が原因ではなく、マラリヤや原因不明の風土病のために。〈私〉の周りの人間が消え失せた後、ついに入院生活の終わりがやってくる。間近に敵軍が迫ったため、動ける者は「転進」を求められるのである。それは事実上の「敗走」であった。
題名の由来は戦地で兵士が死亡した場合、指を切り取り、焼いて骨として内地へと持ち帰ったことに因んでいる。人間という存在がそのように小さく収縮してしまう戦場の事実がある。しかも本作の中に遺骨を戦友に託すというようなメロドラマは存在せず(選考委員の何人かが指摘するように、挿入されるエピソードのいくつかは月並みだが)、逆に「指の骨」が日本に持ち帰られることは絶対にありえないだろうという絶望的な状況が描かれる。そのリアリズムと、それを成立させる緻密な細部の描写が本作の評価すべき点だろう。先行する戦争文学の模倣ととられる可能性はあると思うが、行ってもいない戦争について「こうではなかった」と言い出す偏狭な選考委員は今の芥川賞にはいないのではないか。1979年生まれの作者がこういった小説を書いたことへの評価がどうなるか、非常に気になるところである。評価は★★★☆。
(杉江松恋)