『vN (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)』マデリン・アシュビー 早川書房

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 vNとはコンピュータの基礎を築いた数学者フォン・ノイマンに因む符号で、作中では自己増殖する人間型ロボットをさす。主人公のエイミーは女性型vNで、誕生して六年目。人間の子どもにまじって幼稚園に通っており、今日は記念すべき卒園式だ。しかし、そこで悲劇が起こる。エイミーの祖母にあたるポーシャ(彼女もvN)が式に乱入し、エイミーの母(こちらもvN)と激しく争い、そのはずみで園児のひとりを撲殺してしまったのだ。

 エイミーは母を守ろうと必死でポーシャの顔に食らいつき、卒園式は大混乱に陥ってしまう。人間に害をなさないはずのvNが繰り広げた凄惨な事件。事態を世間は深刻に受けとめ、エイミーは家族から引き離されて収監されてしまうが、そこで出会った男性型vNハビエルの手引きで逃亡に成功。かくして、辛く厳しい逃避行がはじまる。社会的には彼女は暴走したロボットであり、最重要指名手配の対象だ。

 本書は2012年発表の新作だが、物語の骨格は『ピノッキオの冒険』の現代版であって、差別的な社会のなかでの人権やアイデンティティが前景化される。

 主人公のエイミーはロボットでありながら生来的に意識を有しており、その感性と倫理観は人間と等価である。vNの意識発生についての説明は作中にはまったくない。ほかに登場するvNのなかにはエイミーよりシニカルもしくは即物的にものごとを捉える者もいるのだが、それはあくまで環境の違いによる偏差として理解しうる。エイミーは人間の家庭(父親が人間、母親がvN。エイミーと父には血縁はない)で育ったため、市民的良識を身につけたのだろう。指名手配犯としての放浪中に出会ったオバさん(親vN的なレストランのボス)が「人間の男ってのは、ものを考えるのに頭一個しか使わないからね。......チンポのことだよ」などと言うと、エイミーは"真っ赤になる"のだ。

 ほんらいvNには生物的な性はない。彼らは生殖をせず、成長した個体が一定の栄養を摂取することで子を分娩する。もちろん性欲とも無縁のはずだ。vNにとっての本能は、基本システムに組みこまれた「フェイルセイフ」であり、これは人間が傷つくことに堪えられない。vNは自分が人間に危害を加えることはおろか、人間に危険が及ぶ場面に遭遇するだけでも気分が悪くなる。アシモフのロボット工学第一条そのものだが、その発動は強く情緒的であって、vNの内的状態にダメージをもたらす。そして「フェイルセイフ」がじゅうぶん強固に設計されているおかげで、アシモフの第二条をわざわざ組み入れるまでもなく、人間はvNを言いなりにできる。「オマエがオレの思い通りにならなければオレは苦しむ」という素振りさえ見せれば、vNは逆らうことができないのだ。

 マデリン・アシュビーは、この「フェイルセイフ」条件を非対称的に扱ってみせる。それがこの小説のポイントだ。つまり、人間側からみれば「vNはどんな人間でも好きになる」だが、vNにしてみれば「好きでもない人間の要求に否応なく従ってしまう」のだ。この非対称な状況は、まるで現実社会の問題----マジョリティとマイノリティとのあいだの依存/搾取----の射影のようだ。

 そのうえで、アシュビーは非対称性の軸を揺さぶる衝撃として、主人公のエイミーを投入する。エイミーは「フェイルセイフ」が機能せず、自由に行動ができる。彼女は、vNの人格を認めない人間の傲慢を告発するヒロインであり、いちおうの安定を保っている社会体制を擾乱させるアンチヒーローでもある。その姿に共感する読者も多いだろう。物語の強さはもうしぶんない。

 しかし、その物語の強さを保証するのは、「人間性」のゆるぎない基盤や規範であり、それは作中で一度も問われることがない。vNを縛る「フェイルセイフ」が可視化されているのとは裏腹に、目に見えない、そしてもっとも強いルールとして「人間性」が横たわっている。エイミーがどれほど人間離れした性能を発揮しようと、彼女は(われわれ同等の意識を備えた)人間としてふるまう。けっきょく、彼女はロボットというよりも、人間に付加的能力が加わっているにすぎない。その付加的能力を差し引けば、彼女は「普通の」少女となる。あるいは、読者がそのように了解できるよう、物語がつくられている。

 この構図において、本書はレスター・デル・リイ「愛しのヘレン」と大差がない。「ヘレン」のほうはメロドラマで、『vN』は現代的な問題を扱っているが、それはいわば「主張」の違いである。人間性の本質や意識の根拠に切りこむ「SFならではのアイデア」に着目すれば、ロボットSFの系譜はすでに長谷敏司『BEATLESS』----長谷さんは本書に推薦文を寄せているが----というラディカルな傑作を生んでいる。ご本尊のアイザック・アシモフにしても、実直にして不器用な手つきながら「バイセンテニアル・マン」などを残している。

 まあ、しかし、それらと比較して『vN』が不徹底だと言うのは、ないものねだりというものだろう。「ピノキオ」と同様、これは寓話として読むべきなのだ。

 見せ場は多い。序盤では、エイミーが祖母にあたるポーシャを生きたまま食べる場面は、ホラー映画さながらのスペクタクルだ。祖母といってもvNの生体機構は人間とは異なり、ポーシャは身体的に若々しく戦闘能力もバケモノ級。それを食ってしまう孫娘も、また凄まじい。蛇のように大きく口をあけ、酸性の消化液を噴きだし、両手で獲物の皮膚を引きちぎる。大量の食事を摂取したエイミーはたちまち成長し、それまでの幼稚園児が一挙に美少女に早変わり。なんとも鮮烈だ。

 強敵を退治したつもりのエイミーだが、思わぬ陥穽が待ち受けている。ポーシャはエイミーの意識に内在化され(作中では「バックグラウンドで実行されている、すごくメモリを食うプログラムみたい」と表現される)、ときおりエイミーの身体を乗っとりさえするのだ。ポーシャも「フェイルセイフ」が外れており、しかもエイミーのような市民的良識からも解放されているため、毛ほどの罪悪感もなく人間でもvNでも殺す。

 心奥には虎(凶暴なポーシャ)がうずくまり、行く先は狼(差別的な人間)だらけ。この危機的状況のなか、エイミーは自分の居場所を見つけられるのか?

(牧眞司)