1964年に開催された東京五輪の開会式からちょうど50年後の今年10月10日。都内のホテルで記念式典が行なわれ、日本のスポーツ関係者はもちろん、東京五輪に出場した各国の元選手たちが集まり、旧交をあたためた。その中にベラ・チャスラフスカさんの姿もあった。

 チャスラフスカさんは1942年生まれのチェコ(当時はチェコスロバキア)の女子体操選手。東京五輪では平均台と跳馬、個人総合の3種目で金メダルに輝き、団体総合でも銀メダルを獲得している。またその美貌から大変な人気を集め、「五輪の名花」と称えられた。まさに東京五輪の「顔」と言っていいだろう。

 4年後のメキシコ五輪でも4個の金メダルと2個の銀メダルを獲得、体操史上に残るアスリートとなったわけだが、彼女が特に日本において特別な存在として語られるのは、その成績だけが理由ではない。

 式典翌々日の12日、チャスラフスカさんの東京での1日に取材のため同行した。その一部はニュース番組などでも紹介されたので、ご覧になった方もいるかもしれない。

 ホテルを出た彼女は都心にあるお寺に向かった。遠藤幸雄氏が眠るお墓参りをするためだった。遠藤氏は1937年、秋田県生まれの体操選手だ。日本男子が初めて団体総合で金メダルを獲得した60年ローマ五輪から3大会に出場し、三連覇に貢献(結局、日本男子は五連覇を達成)。東京五輪では個人総合と平行棒でも金メダルを獲得している。現役引退後も指導者として活躍、内村航平の時代まで連綿と続く体操王国を築きあげた立役者のひとりだ。

 東京五輪の個人総合金メダリストである遠藤氏とチャスラフスカさんは、64年より以前から固い友情で結ばれていた。数々のエピソードが残されているが、例えば東京五輪を前に、当時男子体操界を席巻していた跳馬の新技「山下跳び」を取り入れようとしていたチャスラフスカさんに、さまざまな助言を与えたのが遠藤氏だった。この新技を成功させたことが、金メダルにつながった。

 2009年に遠藤氏が亡くなるまで、二人の友情と家族ぐるみのつきあいは続く。お墓参りをすませたチャスラフスカさんは、遠藤家の人々とひとしきり思い出話に花を咲かせていた。

 彼女が次に向かったのは、東京の下町にある介護施設だった。車椅子に乗って現れたのは、101歳になる吉田夏氏。日本人初の国際女性審判員として、1956年メルボルン五輪から1972年ミュンヘン五輪まで、5大会連続で審判を務めた。そして彼女はチャスラフスカさんに、「日本には自国の選手をひいきすることのない、とてもフェアな審判がいる」と強い印象を残したのだという。

 数十年ぶりの邂逅に言葉は要らなかった。72歳になるチャスラフスカさんが突然、吉田氏の前で開脚を披露。「今のは何点ですか?」とたずねるチャスラフスカさんに、吉田氏は「満点よ、満点」と、手を叩いて喜んだ。

 1週間ほどの短い滞在の中で、多くの日本人と再会を果たしたチャスラフスカさんは、50年前の東京五輪についてこう語っている。

「まずオープニングセレモニーがすばらしかった。広島出身の坂井さん(※)が聖火ランナーとして入ってきました。もちろんメダル表彰式もよく覚えています。日本らしいセレモニーで、着物を着た女性たちがいて、芸者さんみたいだった。あとは日本の男子が団体で優勝したときに日本の国歌を聞き、とても幸せでした。私は日本の音楽が好きなんです。チェコ日本友好協会として、東日本大震災の被災地の子どもたちを招待したときは、チェコの子どもたちが日本の歌を歌いました。練習して、とてもうまく歌えるようになったんです。また64年にはたくさんのプレゼントをもらいました。ファンから日本刀を受け取ったこともよく思い出します」

※坂井義則さん。元陸上選手。1945年8月6日、原子爆弾投下の1時間半後に広島県で生まれ、東京五輪の聖火最終ランナーに選ばれた。2014年9月10日、死去。

 2020年の東京五輪の招致についても、元IOC委員として側面からサポートしてきたチャスラフスカさん。6年後の東京はこのような出会いを演出できるだろうか。

■チャスラフスカさんと遠藤氏、吉田氏との物語については『桜色の魂〜チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(著・長田渚左)を参考にした。

スポルティーバ●文 text by Sportiva