19年にわたる現役生活を終えた柳沢敦。今回、週刊プレイボーイでは引退後初となるロングインタビューを敢行した。

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プロ生活、19年―。

幾多の困難を乗り越えながら日本を代表するエースストライカーとして輝き続けた、柳沢敦。初めて打ち明けるエピソードの数々に誰からも愛された“ヤナギ”の人柄がにじみ出る。120分ノンストップで本誌だけに語った、“永遠の13番”柳沢敦のサッカー人生がここに!

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縁を何よりも大切にする男である。取材中、何度もその言葉を発していた。19年にわたる現役生活は“自分が選んだわけじゃなく、この地が僕を選んでくれた”というゆかりの地、仙台で終えた。

雪が散らつく12月14日、ユアテックスタジアムでのチャリティマッチ。試合後も観客から繰り返されるコールに柳沢は涙ひとつ見せず、人懐っこい笑顔で応え続けた。

「引退を決めた理由…やっぱりサッカー選手はピッチに立ってプレーするのが一番じゃないですか。最後の数年間は、出場機会が減るにつれ、悔しいという気持ちを常に持ってプレーしてました。“まだやれる、まだやれる”って、自分に言い聞かせながら。でも、今までやってきた経験によるイメージと体が噛(か)み合わなくなってきてたんです。

なんとか“いや、これは錯覚だ、錯覚なんだ”と念じて、違う視点から自分を見つめて頑張ってきたんですけどね。最後のほうは、それすらもできなくて、キツくなっていた。もはや、自分のプレーに満足できなくなっていました。

出場機会がもう少しあった頃は、ある程度ベガルタ仙台に貢献できている自負はあったんです。けど、ベンチを温める日が続くと、やっぱりチームに対して何も役に立つことができないわけで。プレー以外で、チームになんらかの影響力をもたらすのって、すごく難しい。長くもたないんです。

経験を相当積んでいたとしても、それを後輩に伝えるという力は、せいぜい1、2年がいいところ。3、4年目になると、もう何もチームに残せない自分がもどかしかったし、苦しかった。そもそも僕自身、選手はプレーで示さなきゃいけないという考え方が根本にあったので。だから、ここまでだと決断しました」

ベガルタ仙台でもがき続けた最後の4年間。それまでの卓越した技術、稀有(けう)な経験があったからこそ、ギャップに苛(さいな)まれた。富山第一高校時代、柳沢は実にJリーグ13チームから勧誘を受けた。まさしく日本サッカー界の未来を担う至宝だった。

「急に周りの空気が変わったように感じました。なんで、そんなに騒がれるんだろうって。おそらく理由としては、高校生でB代表に選ばれたからだと思うんですけどね。メンバーはJリーグの選手や大学生だらけ、そんななかで、ラッキーなことに当時の西野朗監督に呼ばれて、キングスカップに出場したんです。そこでまた、運よくゴールを決めることができまして(注:結果は準優勝。柳沢はエース格として3得点をマーク)。

その後、僕自身は相変わらずサッカー漬けの学校生活を送ってましたけど、周りの状況が一変してしまったんです。だからといって、てんぐになることはまったくなかったです。というか、無理。もし、そんなそぶりをちょっとでも見せようものなら、親父がすかさず鼻をへし折ってくる(笑)。本当に怖いんです。

親父で思い出しましたけど、小学校時代に町の大会に出場して、優秀賞のトロフィーをもらったことがあったんです。そしたら、周りの友達から「何、このちゃっちいトロフィー」と言われまして。僕も同調して、「ちゃっちいよね」なんて言ってたのを親父が聞いていたんです。帰りの車の中では激怒しながらの大説教。「おまえはトロフィーの重みを理解してない!今すぐ返してこい!」って。

そういう親父の教えがあったからこそ、“絶対、てんぐになっちゃいけない。なったら、そこですべてが終わる”という意識が絶えず自分の中にありました。

それでも、Jリーグの13チームから声をかけてもらったのは嬉しかったですね。というか、驚きのほうが強かったです。正直、高校生の自分からしてみれば、運営とか経営方針、チームの環境はまったくわからなくて。当時、ただ純粋に鹿島が好きなだけでした。

で、いろいろなチームのスカウトの方からお話を聞いて、最後は数チームに絞らせてもらったんです。僕にとっての恩師がいるんですけど、その方からあるクラブを勧められまして。ものすごく心が傾いて、半ば決心を固めたんです。高校の先生にも「そのクラブに行こうと思ってます」って。スカウトの方も、仮契約の書類をわざわざ富山まで持ってきてくださるところまで話が進んだんですが……。

直前に、親父からまたビシッと言われまして。「本当にいいのか? もう一回、自分でサッカー人生を考えろ。ひと晩考えて、それでもそのクラブがいいと決断を下すのなら俺は支持する」。親父は、僕が鹿島好きであることも十分わかってたし、他の人の意見になびいていると思ったんでしょうね。

いざ、スカウトの方が来たとき、「やっぱり鹿島に行きたいです。本当にすみません」と伝えました。その方は「今回、柳沢君を獲れなくて、本当に悔しい。でも、これから鹿島で活躍して、私に心底悔しいと思わせてくれ」と言ってくれたんです。ものすごく感動しましたね。なんて、心が広いんだろうと。あの言葉があったからこそ、ここまで頑張れたんだと思います」

96年、最注目株の新人として、念願の鹿島入り。すぐさま先発起用で大ブレイク、という流れではなかった。下積みを経て、着実に成長を遂げた。得点感覚はもちろん、何よりもオフ・ザ・ボールの動きが格別だった。

「プロとして鹿島に入ったときの監督はジョアン・カルロスでした。すごく印象に残ってますね。当初、僕はなかなか使ってもらえなかったんですよ。後に、彼はあえて僕を使わなかったという話を聞いたことがあります。なぜかといえば、ある程度ちゃんと力をつけてきた段階で起用したほうが、僕が自信を持ってプレーすることができるからだと。本当にありがたいですよね。

カルロスから言われたのは、“普段から年上や年下を問わず、いろんな人の言葉に耳を傾けろ。謙虚な姿勢を貫け。それと忍耐も必要だ”ということ。その言葉を守って、腐らず、焦らず、準備を怠らないようにしてきたおかげで、いざ彼から声がかかったときには爆発できましたね。97年の天皇杯での優勝がそうです。僕にとってのスタートは、まさにここからでした。下積みというのは、つくづく大切なものだとわかりました。

現役時代を振り返ってみると、思い出に残っている試合は数限りなくあります。19年間ですからね。真っ先に思い浮かぶのは、やっぱり自分が絶好調のときの試合です(笑)。ベストは1試合で4ゴールを挙げた、98年の対京都戦です。あのときは、打ったシュートが全部入っちゃうんじゃないかっていう気がしました。

ハセさん(当時の鹿島FW・長谷川祥之[よしゆき])のヘディングシュートが僕の目の前に転がってきて、ごっつぁんゴールとか。あとは相手GKと1対1になって、GKを抜いてグラウンダーシュートを打ったら、そこに相手DFが勢いよくスライディングしてきたんですけど、そのままボールを通り越してしまって、結果、ゴールになってしまったり。何か不思議な力が働いてるような試合でしたね。

それと、因縁っていうんですかね。僕がプロ入りして、初めて決めたゴールが対ガンバ大阪戦(第17節・96年8月31日)だったんです。で、現役最後のゴールになったのも同じガンバ大阪との試合(第31節・11月2日)でした。その日、ベンチ入りしたときに、なんとなく胸騒ぎがして。今日もしかしたらゴールを決められるかもしれないっていう予感がしました。残り3試合で、もう1点決めれなかったのは残念でしたが…。

ちなみに、17年連続ゴールについては、まったく意識してなかったですね。チームのためになんとか得点を取ろうとやってきたら、たまたまそういう記録になったという。自分にいいパスをくれる、いいチームメイトに恵まれていた。それに尽きます。

僕にとって、FWというのは、もちろんゴールを決めるのは大事なんですが、チームの一番トップとして起点になることがまず第一だと思っています。起点になって、チームにリズムをつくり、最後に僕のところにボールが回ってくるという流れ。その流れで自分がフィニッシュできたら理想的ですね。

FWひとりだけじゃゲームはつくれない。やっぱりゴールというのは味方全員で取るものだと。かつて、僕が“シュートを打たずにパスばかりにこだわる”という批判に対して、最良の選択をするだけだという考えを伝えたところ、ずいぶん物議を醸したことがありました。でも、サッカーは一瞬一瞬の判断。正直ゆっくり考えながらできないものです。

なので、自分でいければシュートを打ちますし、パスがよければパスを出す。批判を受け止めて、自分でわがままなぐらいに打っていく姿勢を試したこともありましたが、かえってうまくいかなかった。本来の自分らしい、チームの流れのなかに身を置くプレーに戻したら落ち着きました。チームの流れがよくなれば、必然的に得点チャンスも増える。その考え方は今も変わることはありません」

柳沢の重厚な経歴をたどると、避けて通れないのがW杯だ。06年ドイツ大会に関しては不本意な結果に終わったものの、その前の02年日韓大会ではベスト16進出の原動力となった。ファンの間で今なお語られるのは、絶妙なアシストを見せた、対ロシア戦。当時、中田英寿からはチーム内のMVPと讃えられた。

今だから言えるけど、予選のベルギー戦が終わってから首が痛みだして。次の日、目覚めたら首が回らなくなってました(苦笑)。ロシア戦のときには少し回復しましたけど、3試合目のチュニジア戦のときには激しい痛みに襲われて完全に動かなくなりましたね。いよいよ首に注射を打ちましたが、内心ヒヤヒヤでした。だって、首ですよ。怖いじゃないですか。

結局、トルシエはトルコ戦で僕を起用することはありませんでした。首痛がその理由だとは絶対言わなかった。“私はこのメンバーでいくんだ”と。本当はどうだったんでしょうね…。

とにかく、トルシエはすごくユニークな監督でした。選手に対する叱咤(しった)激励のやり方とかも、今考えるとむちゃくちゃなパフォーマンスばかりでしたけど(笑)、あれはたぶん演技だったんじゃないかな。実は結構、人間味のある人でしたから。

トルシエとバチバチやり合っていたマツさん(松田直樹、享年34歳)の姿も懐かしいですね。僕が今まで対峙(たいじ)してきた日本人DFのなかで、マツさんが一番敵に回したくない選手でした。頭がいい、体が強い。どの年代の代表でも重要なプレーヤーとして招集されていたのはすごくわかります。そして何よりもハートが熱かった。とにかく人が好きだったし愛情も深かったですね。それがプレーにも出ていた。代表で一緒になれたのは、本当によかったです」

この先、指導者という選択も考えているという柳沢。フォア・ザ・チームに徹してきた考え方は、監督になれば、さらに主張できる。ユニフォームに袖を通さずとも人と人をつなげる好漢であり続けるだろう。

「指導者の道については、将来的に…という気持ちはあるものの、まったく未知の世界ですからね。やってみないとわからないです。プロを育てるにしても、子供たちを育てるにしても、きちんと論理立ててやらないといけないだろうし。その前に、まず自分自身がしっかりしないといけないですね。

僕は幸いにして、人とのご縁に恵まれて、家族をはじめ、いろんな人たちに支えられてここまでなんとか頑張ってこれました。鹿島時代の先輩、秋田(豊)さんや本田(泰人)さん、奥野(僚右)さんに相馬(直樹)さん、ナラ(名良橋晃)さんにもずいぶんいろいろと学ばせてもらいましたしね。ムダなことはひとつもなかったです。

京都で主将をやっていたとき、本田さんだったら、こういう場合、どうしていたかなぁと思い出して実践したり。悩んだとき、苦しいとき、周りにどういう人がいるかっていうのはすごく大事です。自分が今まで助けられてきた分、それを人に返していきたいと思っています」

(取材・文/高橋史門 撮影/山上徳幸 撮影協力/なごみだいにんぐ 飛梅 クリスロード店)

●柳沢敦(やなぎさわ・あつし)

1977年生まれ、富山県出身。富山第一高校在学時に“超高校級”として注目され、鳴り物入りで鹿島アントラーズへ。以降、エースFWに成長し、数多くのタイトルを獲得。日本代表としては、2002年の日韓大会、06年ドイツ大会とW杯に連続して出場。03年〜05年にはイタリアのサンプドリアやメッシーナでもプレーした。11月2日のガンバ戦で、17年連続ゴールのJリーグ新記録を樹立。12月4日、仙台にて現役引退を発表