『ドリフトグラス (未来の文学)』サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会

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 サミュエル・R・ディレイニーの全中短篇を網羅した豪華な一冊。全17篇のうちには、長篇として扱われることが多い「エンパイア・スター」も含まれる。ちなみに、この作品は過去に、米村秀雄訳(サンリオSF文庫)と岡部宏之訳(早川書房/海外SFノヴェルズ『プリズマティカ』に収録)があるが、こんかいは酒井昭伸による新訳だ。

 ディレイニーは1960年代初頭にデビューし、日本に紹介されだした当初はハーラン・エリスンやロジャー・ゼラズニイなどと並ぶアメリカン・ニューウェイヴの作家と目されていた。現代的で反体制的なテーマ、ポップカルチャーの要素、前衛的で詩的な表現、セックスをはじめとするタブーへの挑戦、科学技術よりも神話性......といった傾向が注目されたのである。しかし、いまあらためて読むと、ほかの作家たちとの共通点よりも、むしろディレイニーの独自性が際立ってみえる。蛇足ながらつけくわえておくと、ディレイニーはデビューが早いので、米国ニューウェイヴで括られる作家群のなかでもひとまわりほど年齢が下だ(当時は「早熟の天才」みたいな扱いだった)。

 本書収録作品のうち、もっとも米国ニューウェイヴ的なのは、「われら異形の軍団は、地を這う線にまたがって進む」だ。これはゼラズニイへ捧げた作品で、スタイルもそれを意識したのだろう。人間が暮らす全地域に動力線を引く敷設作業員を主人公として、科学技術による繁栄と平等を謳う体制側と、それ是としないオルタナティヴな価値観との相克を描く。作品のバックボーンには明確な文明論があり、葛藤する登場人物が造型されている。こうした「直線的な」小説は、ディレイニーには珍しい。

 それと対照的に、ぼくが典型的だと思う----ディレイニーの特徴が見極めやすい----作品は「プリズマティカ」だ。これは一種の神話であって、メッセージ的(社会状況や日常意識につながる)テーマはなく、リアルな人物像もない。

 むかし、エイモスという貧乏な男がいた。エイモスは〈船乗り酒場〉で、痩せた灰色の男と出会う。灰色男は大きな黒いトランクを携えており、そのなかには大切な友だちが入っていると言う。男はエイモスに手助けを頼み、報酬としてたくさんの黄金やダイヤやエメラルド、さらに「ある人間の生涯でいちばん幸福な瞬間に立ち会える機会」を約束する。灰色男に導かれてエイモスは船に乗りこむが、灰色男の挙動はどうにも怪しい。やがて、エイモスはその船には拘禁室があり、そこに遠い虹の国の王子が囚われていることを突きとめる。

 王子はエイモスに、囚人になるまでの経緯を語る。あるとき、年老いた魔法使いが王子の前に一枚の鏡を立てかけ、「なにが見える?」と尋ねた。「むろん、このぼく自身、虹の国の王子ですよ」と答えると、魔法使いはなぜか立腹して鏡を三つに割り、「この鏡をもとどおり一つに合わせてのぞくまで、おまえは遠い虹の国の王子にはなれない」と告げる。すると、王子は見知らぬ土地におり、ポケットに三つの鏡のかけらのありかを示す地図が入っていた。放浪の身となった王子を拾いあげたのが、灰色男だった。男は王子をトランクの運搬役として雇い、最後にはどっさりと金をくれる。王子はその金で一隻の船を買った。しかし、灰色男はその船も地図も盗み、王子を船の拘禁室に閉じこめる。

 まるで波瀾万丈のお伽噺。それにしても奇妙なのは、灰色男のふるまいだ。地図を手に入れるのが目的ならば、王子と最初に会ったとき、すぐに取りあげればよいではないか。それをわざわざ雇い、金を与え、その金で王子が船を買ったあとに、その船ごと取りあげている。そんな手間をかける必要があったのか?

 もちろん必要はある(のだろう)。それは物語上の必要ではなく、小説構成上の必要だ。つまり灰色男の都合ではなく、ここに描かれる世界が要請するものだ。ストーリー上の辻褄よりも、小説空間の成りたちにかかわっている。

 ディレイニーが必要としたのは、「自分の船に閉じこめられている」という構図かもしれない。あるいは「トランク=船」の相似性かもしれない。この作家の作品を読むうえで重要なのは、物語の進行を追うのではなく、むしろ枠組みの構造をつかむことだろう。喩えれば、夜空に散らばる星々のなかから、星座を見いだす感覚。静物画のなかから個々の対象を切りだすのではなく、全体の構図や階調を把握する感覚。

 たとえば「プリズマティカ」は、色がひとつの手がかりになる。「虹」の王子/「灰色」の男/「黒い」トランク......それ以外にもおびただしい色があらわれ、意図的に仕組まれているとわかる。

 また、鏡のみっつの欠片が隠されている位置。作中では、「ひとつはあのむこうから二リーグ手前にあり、二つめのはこいつの上にあり、三つ目のは、どこか思ったより近くにある」と記述される。あのむこう(over there)、こいつの上(up this one)、どこか近く(somewhere nearer)----この位置の示しかたには、含意があるように思える。記号論的なもの、あるいは象徴的なものかもしれない。ひょっとすると数論や位相空間みたいなことかもしれない(ディレイニーは大学で数学を専攻した)。

 すっきり解釈できないもどかしさは残るが、それでも「物語(内容)」の層だけではなく、「表現(構成)」に注目して読んだほうが、ディレイニーの作品はだんぜん面白い。

 まあ、打ち明けてしまえば、面白いと言いきるのに躊躇もある。「プリズマティカ」や「時は準宝石の螺旋のように」(名伯楽デーモン・ナイトをして「いったい何を書いたのか?」と首を捻らせた問題作)は、たとえ物語の内容はわからずとも、構図やモチーフの動きでじゅうぶんに魅力的だ。その一方で「真鍮の檻」のように、ぼくにはピンとこない作品もある。逃亡不可能と言われた暗闇の牢獄に収監された三人の犯罪者のやりとりを描いた作品で、登場人物の名前がケージ(Cage)、ホーク(Hawk)、ピッグ(Pig)だとか、牢獄の形状が頂点を接した三つの扇形であるとか、いかにも仕掛けがありそうなのだが、そこまで考えて宙ぶらりんになってしまう。なにかきっかけが掴めれば、パッと視野が開けそうなのだけど......。

 そういう一筋縄ではいかないところも含め、ディレイニーはずっと気がかりな作家だ。

(牧眞司)