来日するまで「駅伝なんて知らなかった」というステファン。4年連続で2区を走った箱根駅伝を、今は指導者として目指す

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今年も2日、3日と「第91回 箱根駅伝」が開催される。

今では駅伝で当たり前になった留学生選手。しかし、増えてきたのはここ最近ーー。90年代の“黄金期”山梨学院大のエース、真也加(まやか)ステファンがその当時の苦悩を明かす。

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私は高校(山梨学院大付属高校)に1年間通ってから山梨学院大に入学したんですけど、(ケニアでも同じ高校に通っていた先輩のジョセフ・)オツオリさんとは入れ替わりだったし、日本の生活に慣れるまでは大変でした。

特に1年生のときは、午前中に日本語学校に行って、午後に大学で授業を受けて、夕方から練習という毎日。当時は大学に専用トラックがなく、何kmも離れた公営トラックまで自転車で往復して練習していました。寮に帰ってからも自炊当番はあるし、夜9時には寝なければいけないし…。いや〜、一番つらかった時期です(苦笑)。

今みたいにケータイもなくて、ケニアへの連絡手段は手紙だけ。お盆休みや正月休みになると、チームメイトは実家へ帰るんですけど、さすがにケニアは遠くて帰れない。だから、陸上部関係者の経営するロッジで泊まり込みのアルバイトをさせてもらって、休憩時間にひとりで走ったりして過ごしていました。

今でこそ高校、大学、実業団と多くのケニア人選手が日本で走っていますけど、時代が変わったなとしみじみ思います。何しろ僕の学生当時は、日本にいるケニア人を全部合わせてもせいぜい20人から30人程度で、大好きなウガリ(ケニア人の主食)用のトウモロコシの粉を手に入れるのも至難のワザでしたから。

駅伝を知ったのは日本に来てから。最初は、なんでそんなに盛り上がるのかと不思議でした(笑)。でも、実際に走ってみると、1秒が本当に大事になるし、前の選手をただ抜くだけでなく、次の選手が走りやすいように差を広げなくてはいけなかったり、奥が深くて面白いなと。

箱根では1年のときから2区を走りましたけど、スタート前は23.1kmも走れるか不安でしたね。で、実際に後半にバテた。でも、2年からはいい走りができました。2年と3年のときに優勝できたのは最高の思い出です。

当時の山学大はメンバーもそろっていて強かったですけど、早稲田大も強かった。特に、同学年の渡辺康幸が強くて、いいライバル関係でした。

彼とは仲がよくて、試合前でも普通に話していましたけど、「あいつには負けたくない」と思ってやっていました。それは彼も同じはず。

だから、3年のときに2区で負けたのは悔しかった。僕は先頭で襷(たすき)をもらって単独走、彼は後ろから追いかけるという状況の違いも影響したとは思うのですが…。

でも、もっと悔しかったのは4年のとき。10月にアキレス腱を痛めて、全然練習をやれていなかったんです。しかも、1区の選手がまさかの最下位(苦笑)。こういうときに限って、なんで…という感じでした。結局、いい走りができず、チームもその後の4区で途中棄権。今思い出しても悔しいですね。

今は桜美林大陸上競技部の駅伝監督として、箱根本戦出場を目指しています。昨年4月に就任したのですが、ゼロからのスタートで、選手は今年4月入学の1年生だけ。高校時代に実績のある強い選手はいないし、体重オーバーの選手も多くて、8月くらいまでまともに練習ができませんでした(苦笑)。

それでも、今年の予選会に出場できたことは(参加48校中29位)、スタートを切れたという意味で大きな一歩だと思っています。時間は必要ですが、いつか目標を実現したいですね。

(取材・文/折山淑美 撮影/五十嵐和博)

■週刊プレイボーイ1・2合併号(12月25日発売)「12P総力大特集!箱根駅伝 伝説の名場面」より