今年もこの正月がやってきた! 箱根駅伝が日本のマラソンをダメにしたーーそんな批判もある。だが、その歴史を振り返ると、数多くの名選手が世界に羽ばたいているのもまた事実である。

■おなじみの解説者が残した“伝説”

第1回箱根駅伝が開催されたのは1920年。“日本マラソン界の父”と呼ばれる金栗四三(かなぐり・しそう)らの尽力によって誕生した。

そして、金栗の「世界に通用するマラソン選手をつくりたい。そのためには学生時代からロードで長距離を走る必要がある」という狙いどおり、多くの選手が世界に羽ばたいている。

なかでも強烈な輝きを放ったのは、70年代後半から80年代にかけて宗兄弟(茂・猛)らと“日本マラソン黄金期”を築き上げた瀬古利彦だ。

高校時代から頭角を現していた瀬古は、1浪して早稲田大に入学。箱根では4年連続で2区を走り、3年、4年と連続で区間記録を更新している。

大学1年時からマラソンにも取り組み、3レース目となる78年の福岡国際マラソンで初優勝。4年になった79年には、4月にボストンマラソンで2位、12月の福岡国際マラソンでは宗兄弟とのトラック勝負の大接戦を制して、80年モスクワ五輪代表に選ばれた。

残念ながら、日本選手団のボイコットでモスクワ五輪出場は幻に終わったが、同年の福岡国際マラソンでは、モスクワで五輪連覇を果たしていたワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)を破って優勝した。

その後、84年ロサンゼルス、88年ソウルと2度出場した五輪では入賞を逃したが、マラソン15戦10勝という勝負強さは今も語り継がれる伝説だ。

91年の世界選手権(東京)で日本人初の金メダル獲得という偉業を達成し、92年バルセロナ五輪で転倒しながら8位に入賞した後に「コケちゃいました」という名言を残した谷口浩美も箱根経由のランナーだ。

日体大時代の谷口は“山下りのスペシャリスト”。2年時から3年連続で6区を走り、いずれも区間賞に輝いている。

アフリカ勢の台頭以降、日本勢は世界の舞台で苦戦しているものの、中央大で活躍した佐藤信之が99年世界選手権(セビリア)で銅メダル、山梨学院大で活躍した尾方剛が2005年世界選手権(ヘルシンキ)で銅メダルを獲得している。

現役選手では12年ロンドン五輪6位入賞、13年世界選手権(モスクワ)5位入賞の中本健太郎が、拓殖大4年時に7区を走って区間16位。また、“最強市民ランナー”川内優輝も、学習院大時代に関東学連選抜の一員として6区を2度走り、4年時には区間3位の好走を見せた。

(取材・文/折山淑美)