画像はディズニー公式ホームページ「Disney.jp」より

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 2014年を振り返るなかで忘れてはいけないのが、『アナと雪の女王』の爆発的ヒットだろう。猫も杓子も「レリゴー」の大合唱で、子どもから年配者までが夢中に。ここまで人びとを惹きつけ、大きな話題を呼んだのには、これまでのディズニー映画に顕著だった"受け身のプリンセス"とは打って変わって、男性から自立した存在として描いたことにもあるだろう。

 当然、この新しいプリンセス・ストーリーの登場に、大いに湧いたのは評論家たち。さまざまな『アナ雪』解釈が行われ、議論に事件まで勃発した。

 まず、男性視線で『アナ雪』を紐解いたのは、批評家の東浩紀氏。実業家の夏野剛氏、美術評論家の黒瀬陽平氏とともに「男たちが語る『アナと雪の女王』──なぜクリストフは業者扱いなのか」なるイベントを開催し、

「僕なんか見終わった後、複雑な気持ちがしたのが、女の子が一生懸命、がんばるという話をストレートに作っているだけじゃなくて、わざわざ男いらないって強いメッセージを出している。なんでそこまで王子モデルを攻撃しないといけないのかと」

 と、感想を述べた。これには黒瀬氏も「それでは今まで男が女にやっていたことを、単にひっくり返しただけになっちゃう」と同意し、以後は"オラフはアナとエルサの養子&オラフの鼻のニンジンは男性器のメタファー"説や、"舞台が北欧=先進国が抱える少子化問題などの将来を暗示している"説などを展開。最終的に東氏は「「女性が解放されて良かったんだ〜」という脳天気な映画ではない」と結論づけた。

 たしかに、国内外で"エルサの魔法=マイノリティや障碍者のメタファー"という分析もあり、女性の解放だけがテーマではないというのはわかる。ただ、端的にいえば『アナ雪』は男性がつくり上げてきたご都合ヒロイン像を意図的に覆しただけ。それに、この3人がいうほどクリストフは「ヘタレで役立たず」(黒瀬氏)でもない。なのに、ここまでクリストフが業者で終わったことに過剰反応するのは、逆に3人の男根至上主義が浮き彫りになるようで、なかなかに興味深い。

 また、テーマと大きく関係する楽曲「Let It Go」について4月にTwitterへ熱く持論を連投したのは、脳科学者・茂木健一郎氏だ。茂木氏は東氏らと同様に、

〈今の王女さまは、主体性を持って、自分で何でもつくってしまう。というか、はっきり言って、王子は、オプションというか、いたらいいが、いなくても別にいい〉

 と、『アナ雪』の男性不要論を唱える。だが、つづけて〈王女さまが受け身で、王子さまが助けてくれたり、いろいろやってくれるのを待つ、というのはもはや先端ではない〉とし、『アナ雪』はいまの世代の共感を呼ぶものだと解説する。

 が、茂木氏はここで話題を小保方晴子さんに移し、〈偉いおじさま方が、あたかも保身に走るかのように、すべてを小保方さんに押しつけて逃げようとしているのが、みっともない〉と、当時は徹底反論の姿勢を見せていた小保方氏と「Let It Go」の歌詞を重ね合わせる。ここまではよくわかるのだが、なぜか〈日本版では、松たか子さんが歌っているようだが、小保方さんが歌っても面白いと思う〉というのだ。いや、それは面白いというより、もっとも殺生な提案でしょうよ。

 一方、女性である写真家・蜷川実花は、『アナ雪』に共感する女性たちに疑問を投げかけ、〈幼稚園のお母さん友達がなぜあんなにハマるのか。雪の女王的私の通常の友人たちはそんなはまんないんです。やはり主婦は大変ですよ〉と主張。同じ女性でも受け取り方は違うことを示唆した。うーん、男性社会に生きるという意味では、主婦もバリキャリも関係ない気もするが......。

 このように数々の論評が飛び交ってきた『アナ雪』。そうしたなかでも、もっとも話題を集めたのは、やはり評論家・中森明夫氏の批評だろう。もともとTwitter上で中森氏の『アナ雪』解釈は関心を集めていたが、これが大きな問題に発展。というのも、中森氏に寄稿を依頼した「中央公論」(中央公論新社)が、突如、上がった原稿の掲載を拒否したのだ。

 中森氏はこの原稿をネット上で公開しているのだが、そのなかで注目されたのは〈私たちの国を代表する雪の女王〉として、雅子妃殿下の名前を挙げている点だ。

〈皇太子妃となって、職業的能力は封じられる。男子のお世継ぎを産むことばかりを期待され、好奇の視線や心ないバッシング報道にさらされた。やがて心労で閉じ籠ることになる〉〈皇太子妃が「ありのまま」生きられないような場所に、未来があるとは思えない〉

 このごく真っ当な批評が掲載拒否を食らったのは、もちろん同社の皇室タブーのせいだろう。「中央公論」といえば、そのむかし深沢七郎の小説「風流夢譚」をめぐって右翼から抗議を受け、ついには右翼団体に所属していた少年が嶋中鵬二社長宅に侵入し、夫人と家政婦を切りつけた殺傷事件、いわゆる嶋中事件が起こっている。それゆえ、菊タブーにはことのほか敏感で、少しでも物議をかもしそうな皇室記事は一切掲載しないという方針があるらしい。

 しかし、これが過剰反応だったのは、「週刊文春」(文藝春秋)がその少し後、6月19日号で「雅子さまは『雪の女王』か」という記事を掲載したことからも明らかだろう。

 もっとも「文春」の記事のほうは中森氏と同じ雅子妃=雪の女王説にたっていても、趣旨は逆で、かなり踏み込んで雅子妃批判を大々的に展開している。

 まず、皇室関係者のあいだでも『アナ雪』の話題で持ちきりだとし、劇中でエルサが「Let It Go」を歌い上げるシーンについても、皇室関係者が「あの場面の本質は、女王が責務を放棄して『自己実現』を歌い上げていることです。どうしても"開き直りの歌"に聞こえてしまうんです」と話す。そして、映画の場面と雅子妃の過去の言動をあげつらい、「公的な立場にありながら、その役割をかなぐり捨てても"私"を実現させたいという強い思いがあったのでしょう」などという今井舞のコメントを紹介する。さらに、エルサの絶望によって王国に雪嵐が吹きすさび、「市井からは悲痛な声が漏れ」ているにもかかわらず、「民草の悲憤慷慨は、エルサに届かないのだ」と解釈し、「ご自分の影響の甚大さに気付かないところもどこか似ています」などと、雅子妃と雪の女王を結びつけるのだ。

 しかし、映画では女王を批判する「悲憤慷慨」の主は実体のない匿名、もしくは国を乗っ取ろうとする勢力として描かれており、「文春」の記事の解釈は一面的すぎる。というか、いかにも雅子妃を叩きたいために無理矢理『アナ雪』にこじつけた感が満載なのだ。

 このような言説に対抗するのは、評論家・荻上チキ氏の論評だ。ついには今月『ディズニープリンセスと幸せの法則』(星海社新書)まで発売した荻上氏だが、以前にもラジオ番組に出演した際、独自の『アナ雪』解釈を披露している。

 たとえば「文春」は、〈(雪だるまのオラフは)真夏に生きることを夢見る可哀想な存在〉〈王国に夏がやって来て、ハッピーエンドとなる〉と解説するが、荻上氏の解釈は違い、「エルサを夏に戻すことがハッピーエンドではないんだっていうことが、実はオラフの登場によって証明される」と語る。ポイントとなるのは、オラフが歌う「あこがれの夏」の歌詞〈暑い夏と寒い冬 二つ合わせたら もっといい〉という部分だ。そう、『アナ雪』が描こうとしたのは、「魔女と共生するための道を探る物語」だからだ。

 エルサはラストシーンで、自らの能力を街の住人たちの前でもさらけ出すようになっている。これはエルサが望んだ"自由"だ。「だけども、それは自分だけで自由を解放するっていうことじゃなくて、まわりとともに生きることが重要なんだっていう。そうしたものが描かれている」と荻上氏は言う。

 だいたい、〈民草の悲憤慷慨は、エルサに届かないのだ〉と「文春」は非難していたが、そもそもエルサ自身がどうにかできるものではない。「エルサの魔法の能力というのは治さなくてはいけない病ではなくて、生まれつきの特性」(荻上氏)なのだ。個人に責任を押し付ければ、それはエルサの両親がそうしたように社会から隔離するか、ハンス王子が手下に命令したように社会から抹殺するしかない。しかしそうではなく、「社会の受け入れなさというのを直していくことが正解」だと『アナ雪』は指摘した──。「これがやっぱり『アナと雪の女王』の、これまでのいろんな映画とかディズニー映画と別の時代性をまとっている大きなポイント」というのが、荻上氏の見方だ。

 筆者の個人的な感想としても、この荻上氏の論評がもっともしっくりくると感じたが、もうひとつ荻上氏は重要な話をしている。日本語版の「Let It Go」の歌詞は"ありのままの自分を受け入れよう"というストーリーになっているが、英語版はそれ以前に「いままで『いい子でいろ』とか、いろんなことを言われてきたという抑圧の歴史が語られてきて、"そうした社会の抑圧から自分は解放されようじゃないか"というストーリーになっている」という点だ。

 年末年始にかけて、きっと繰り返し「ありの〜ままで〜」という歌を聴くことになるかと思うが、あれは「開き直りの歌」でも「わがままを肯定する歌」でもない。現代に誕生した一種のプロテストソングだということを、どうか覚えていてほしいと思う。
(水井多賀子)