育成選手から目指す「ポスト阿部」田中貴也 人生最大のピンチを救ってくれた母のために

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「恩返し」と色紙に記した田中。一番の武器であるスローイングを中心に、まずは守備からアピールしていきたい

諦めかけていたプロ入り


 吉報は、母からの電話だった。

「巨人に指名されたよ」と受話器の向こうではしゃぐ母・一代(かずよ)さんに思わず「えっ?」と驚かずにはいられなかった田中貴也だが、すぐさま喜びにあふれた。

 実は、指名の可能性を示す調査書が届いていたのは日本ハムのみ。日本ハムは、育成選手を獲得しない方針ということもあり、育成ドラフトが始まると田中はTwitterでの速報画面に目を通してこそいたものの、その電波が悪くなり更新が滞ると携帯を閉じ、「あぁ、やっぱり厳しいな……」とこれからのことを考えていた。そんな矢先の巨人育成ドラフト3位指名だった。

 そして数日後、高校時代を過ごした石垣島に田中と一代さんは挨拶へ向かい、その夜には当時の保護者や学校関係者・OBらによる盛大なお祝いが催された。「それが本当に嬉しかった」と2人は声を揃える。

京都から憧れの八重山商工へ


 京都府南丹市で生まれ育った田中が、沖縄県石垣市にある八重山商工高を進学先に希望したのは中学2年の夏。甲子園での大嶺祐太(ロッテ)らの活躍に触発された。ただ当時の田中は本人いわく「守備は当時から自信ありましたが、打つのは全然」という実績もない普通の軟式野球少年。呼ばれるでもなく、自らの意志で挑戦を決めた。

 だが入学後は苦労の連続だった。初めての寮生活に加え、伊志嶺吉盛監督の猛烈なスパルタ指導。もちろんそれを承知で、むしろその環境を望んでの進学だったが、それは当時の田中の想像を遥かに越え「もう毎日辞めたかったです」と当時を苦笑いで振り返る。

人生最大のピンチを救った母


 そして高校2年の夏、人生最大のピンチが訪れる。

 沖縄大会準決勝で興南に4‐5で敗れた八重山商工。試合後、伊志嶺監督の怒りの矛先は唯一2年生でベンチ入りしていた田中に向けられた。「おまえのせいで負けたんだ。おまえのせいで3年生の高校野球が終わったんだ」と全部員そして父兄もいる中で厳しく叱責された。エンドランの空振りはあったものの、あまりの厳しい言葉に田中の顔から生気がどんどんなくなっていった。

 それを見ていた一代さんは決断をする。「甲子園がどうこうではなく、貴也をあと1年、野球をやり遂げさせるために」と自ら寮母となり石垣島へ移り住むことを決意。ちょうど当時の寮母が辞めることとなっていたタイミングも相まって、伊志嶺監督の自宅を改装して作られた寮に引越し。周囲からは「子どもを甘やかしている」などの声も耳に入ったが、それでも意志を貫いた。

 そして寝食を共にし、毎日練習を見守ると、一代さんの中で見えてきたものもあった。それまで何度か試合の応援や練習を見学した際は、「我が子にそこまで言うかと。引退したら覚えてろよと思ってました(笑)」というほどの伊志嶺監督の言動だったが、「子どもたちと野球が本当に好きなんだなと。表情には出さないのですが、そういうものがわかりました」と今では感謝の気持ちで振り返る。
 

阿部慎之助のような「存在感」を目指す


 高校3年時も甲子園出場こそならなかったものの、3年間高校野球をやり遂げた田中のもとに、元巨人のV9戦士でもある高橋一三監督(現総監督)が直々に訪れ、山梨学院大へ勧誘。大学入学後は1年春の開幕戦からマスクを被ると、主将となった4年春には、チームを創部史上初の全国大会出場に導いた。

 伊藤彰監督は「人に好かれやすい、応援されやすい子」と田中を表現。また、「田中がゴミを見つけて拾い始めると、皆もやりはじめる」という、言葉でも背中でも引っ張ることのできる存在感があると話す。

 一代さんも「夫(父・榮治さん)と私でよく貴也に言うのは?原点に戻ろう?ということ。?なんでここに来ることを自分で決めたのかを考えよう?と。大学でも思い悩んだことはありましたが、そう言って励ましました。我が家は?子どもが敷いたレールを親が支えて、子どもが自ら進んでいく?そういう方針ですから」と笑い、育成選手という立場でも「どんな形でもプロに行く」と決断した田中の背中を押している。

 田中は「いろいろな土地で、多くの仲間や指導者と野球をしてきた財産があります。それを生かして、阿部慎之助選手のような存在感のある選手になりたいです」と大きな夢を語ってくれた。厳しい環境である育成選手からのスタートではあるが、母譲りの行動力で一流選手への道を切り拓いていく決意の田中に大きな期待を託したい。